2023年  10月 8日  聖霊降臨後第19主日

      聖書 :  イザヤ書              5章 1節~7節
            詩篇                80編 8節~16節
            フィリピの信徒への手紙     3章 4節b~14節
            マタイよる福音書        21章 33節~46節

      説教 : 『 神の忍耐の中で 』
                 信徒のための説教手引き 信徒代読
      教団讃美歌 :  504、 365、 260下、 453

先週の聖書の日課は、ぶどう園の例え話でしたが、今日のイエス様の例え話もぶどう園のお話です。今日
のお話は「悪い農夫の例え話」と言われています。

あるぶどう園の主人が、農夫たちと約束をして、ぶどう園を貸しました。収穫した中から分け前を収めるとい
う約束でした。そして主人は遠い所に旅立ちました。

収穫の時期が来て、主人が約束の取り分をもらうために僕たちを遣わすと、農夫たちは約束を果たさな
いばかりか、自分たちの所に遣わされた僕を袋だたきにし、別の僕たちを殺してしまったというのです。主人はま
た僕たちを送りましたが、やはり農夫たちは使いの僕たちを同じ目に合わせました。主人は「私の息子なら敬っ
てくれるであろう」といって自分の息子を送りました。ところが農夫たちは「あれは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相
続財産を我々のものにしよう」といって、その息子を殺してしまったのです。

イエス・キリストがここで話されていることは、それまでイスラエルの歴史の中で起きたこと、またこれからキリス
トの身に起きようとしていることです。ここで例えられているぶどう園の主人とは神様でことです。神さまはエジプト
の奴隷となっていたイスラエルの人々を救い出し、パレスチナの地に領土を与えました。そして神はイスラエルを
神のぶどう園として、ぶどう園を荒らす外敵から守って下さり、また人々が生きて行くのに必要な一切のものをお
与えくださったのです。その上で神様は今日の旧約聖書イザヤ書5章に書かれているように、ご自分の律法を
与えて、イスラエルの人々が神様を愛し敬い、正義が行われる国を造るように期待されたのです。

でもイスラエルの国は神様が期待されたような良い実を結びませんでした。つまり神様が期待されたような
国にはならなかったのです。とくにイスラエルの指導を任された人々は、神様のご栄光を求めるよりも自分の権
力や自分の地位を求めたり、神様のみこころを行うよりも自分の欲望を行うようになってしまったのです。

そこで神は、その僕である預言者たちを遣わし、彼らを通してご自分のみこころを告げられたのですが、イ
スラエルの指導者たちはその預言者たちを迫害したのです。それで、とうとうぶどう園の主人は、すなわち神様は
、最後の使者として、その愛する子であるイエス様を送りました。しかし、指導者たちはイエスを拒絶して、十字
架のむごたらしい死に追いやったのです。

ここで「家を建てる者」というのはイスラエルという国を造る指導者たちのことです。国家という家を造ることを
任せられた人々が、イエス・キリストを「これはわたしたちには不都合な者だ」といって捨ててしまった。それがイエ
ス・キリストの十字架の死です。

ここで見逃してはならないのは、農夫たちは主人の息子と知らずに、無知のために殺してしまったのではな
く、「あれは跡取りだ」と認めたうえで殺してしまった確信犯だということです。同じように、イエス・キリストを殺した
人々もイエス・キリストが神の子であるということを知ったうえで殺してしまいました。彼らはイエス・キリストを見ると
き、そこに自分たちの本当の主人である神の訪れを感じたのです。それでイエス・キリストを嫌い、殺してしまった
のです。

このようなことは彼らに限らず、わたしたちのすべての人間に当てはまります。わたしたちは自分の体、自
分の心、理性、自分の家族や財産をすべて自分のものだと思いたいのです。本当はそれらは自分が造り出し
たものではなく、すべて与えられているもの、貸し与えられているものであることは分かるはずです。だれも自分の
自身の心や体を造った、と言えるひとはいないからです。神がそれをわたしたちに委ねられたのは自分勝手な生
き方をするためではなく、神を愛し、その御心に生きるためでした。それなのに本当の所有者である神が遣わし
たイエス・キリストを自分の生活から排除しようとするのです。

ですから、この例え話はイスラエルの家造りたち、つまり国家指導者に向けられたものですが、わたしたちに
も向けられています。わたしたちもまた自分の人生をという家を設計し、建てる責任をもった一人一人だからで
す。しかしわたしたちも彼を尊びませんでした。わたしたちもイスラエルの人々と同じようにキリストを拒み、神に
背いて生きてきました。そしてそのような人類の罪がイエス・キリストを十字架の死に追いやったのです。

イエス・キリストは、「このぶどう園の主人が帰ってきたなら、この農夫をどうするだろうか」と聞きました。聞い
ていた人々にとって答えは明らかでした。農夫のした悪に対して裁きが行われなければなりません。もはやこの
先はないのです。イエス・キリストは殺され、人間の罪は確定しました。実際にイエス・キリストを拒んだイスラエ
ルの国はその40年後亡ぼされてしまったのです。

しかし神はただちにイスラエルを滅ぼされたのでしょうか。いいえ、イエス・キリストは栄光の内によみがえって
、イスラエルの罪を裁かれたのではなく、なおも40年間イスラエルの中で弟子たちを通して罪の赦しの福音を伝
え、人々を招かれたのです。これは驚くべき忍耐ではないでしょうか。神は長い間預言者たちを送り続け、最後
にご自分の独り子までお送りになり、その独り子が、はずかしめられ、殺されても、なお猶予の時を与えてくださ
ったのです。そして人々が立ち返るための赦しの道を開いて下さったのです。

キリストは「家を建てる者たちが捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたした
ちの目には不思議に見える」という詩篇(1182223)の言葉を引用しています。「隅の親石」というのは
四隅の壁と壁とが接するところを押さえる、一番目立つ場所におかれる大切な石のことです。イスラエルの人々
が「こんな人物はいらない、邪魔だ」といって捨てたイエス・キリストは栄光の内に復活しました。人間は取り返
しのつかないことをしたのですが、それで終わりではありませんでした。キリストはよみがえってその死が罪の赦しの
ためであったことを告げてくださったのです。十字架に死んでよみがえったキリストを見上げ、そこから赦しと救いを
いただき、キリストをくださった神を崇め、キリストをわたしたちの主として仕える人々がクリスチャンであり、新しい
神の民です。それはペトロの手紙で次のように言われているとおりです。「この主のもとに来なさい。主は、人々
から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石とし
て用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(1ペトロ24~5)

神の子を拒んだこの世界はすぐに滅ぼされても仕方ない世界です。しかしわたしたちはイエス・キリストの
死と復活によって表された神の驚くべき忍耐と愛を知らされたのです。それはわたしたちが神に立ち返るため、そ
して喜んで神の民にふさわしい生き方を学ぶためです。

今日、わたしたちは神に感謝をささげ、恵みを受けた神の民とされたことを喜びましょう。これは決して「当
たり前」のことではなく、まさしく「有り難い」こと、普通ではありえない恵みなのです。詩篇にあるように「これは主
の御業、わたしたちの目に驚くべきこと」です。その不思議な神の御業、すばらしい恵みの御業を覚え、讃える
ためにこうして今日もここに集まっているのです。「今日こそ主の御業の日」、主の復活の日曜日です。ですから
「今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(詩篇11824)

<祈り>天の父なる神様。今一度わたしたちは不思議な、驚くべきあなたの恵みの御業について聞きました
。わたしたちの思いを越えたあなたの恵みに感謝します。わたしたちがあなたの恵みを無駄にすることなく、あな
たを畏れ、また感謝をもって、ますます主イエス・キリストに喜び仕えることができるように導いてください。主イエ
ス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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