2023年  11月 26日  聖霊降臨後最終主日(緑)

      聖書 :  エゼキエル書           34章11節~16節、20節~24節
            詩篇                95編 1節~7節a
            エフェソの信徒への手紙     1章 15節~23節
            マタイよる福音書         25章 31節~46節

      説教 : 『 主イエスによる総括 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  135、 137、 394、 289

本日の説教は、以前、東海教区でご奉仕されていて、現在九州教区、箱崎教会の牧師であられる、和
田憲明先生による説教です。

今日は、ペリコペによれば、「聖霊降臨後最終主日」 になります。 来週から、新しいペリコペ (マルコ)に変
わり、イエス様のご降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)がいよいよ始まります。 このような脈絡の中で、イエ
ス様は私たちに何を語ってくださるのでしょうか。 ご一緒にメッセージを聞いてゆきましょう。

福音書の箇所は、イエス様が十字架に架けられる前に弟子たちに語られたたとえ話です。 マタイは固有の
伝承である(マルコやルカにない)この物語を、イエス様の十字架の前に配置しました。 このたとえの2日後の
過越祭には、イエス様が十字架につけられることが語られているのです。(26章2節) 非常に切迫した状態
の中で、イエス様のこれまでの多くの教えや、歩まれたことの総括が今日の物語をもって終わるのです。

さて、聖書の表題には 「すべての民族を裁く」 とあります。 一体、どのように行われるのでしょうか。 その
方法は、私たちすべての者が神の前に立たされ人生の総括を迫られる、というものです。

《 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く 》(31節)。 この時、イエス
様はご自分の十字架を前にしておられたにもかかわらず、その後に起こる出来事を見通しておられたのです。 
たとえの中で、ご自身を 「人の子」 と呼び、再臨を意識されておられたことが分かります。 つまり、イエス様に
はその生涯の終わりに十字架があり、復活され、弟子たちに現れ、昇天され、その後に聖霊降臨があり、やが
て来る再臨の救いの出来事が一直線に結ばれることを、今日提示されているのです。

たとえの内容は、比較的明瞭に語られています。 《 羊を右に、山羊を左に置く 》(33節) これは、当時
の羊飼いが羊や山羊の世話をする時に、二つを分けたことに由来しています。 パレスチナでは、羊は戸外で
夜を過ごすことを好みましたが、山羊は風の通らない場所に囲い、洞窟に入れ、暖かくしてやる必要がありまし
た。 このように、二つの場所が用意され、羊から山羊(山羊からは羊)が見えないほどに離れた場所に置かれ
るのです。

パレスチナの考え方で右は 「幸いの側」、左は 「不幸の側」 とされる優劣がありました。二つの場所の行き
来はもはや不可能です。 そしてそれぞれに王の声が響き渡るといいます。 右にいる者へ、あらゆる時や場所
で 「わたしにしてくれたではないか」(35節~38節)と、王は告げます。 しかし、《 正しい人 》(37節)は、自
分のしたことに覚えがない(38節~39節)と、王に答えるのです。 そこで、王は 《 はっきり言っておく。 私の
兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。》(40節)と、感謝の意を
表明し、この者たちが、《天地創造のときからお前たちの為に用意されている国を受け継ぐ》(34節)者であるこ
とを語るのです。 また逆に左に分けられた人たちには、《 呪われた者ども 》 (41節) と語られ、これと正反対
のことを行ったとし、《 用意してある永遠の火 》に入るように裁かれるのです。

私たちはこのたとえを聞き、もちろん、《右側にいる人》(34節)になるように願い、生き方を選択します。 い
ったいどのように《この最も小さい者》に施すことができるのか、考えてしまうのです。

同じ 「マタイによる福音書」 の山上の説教には、《わたしに向かって 「主よ、主よ」 と言う者が、みな天国に
入るのではなく、ただ、天にいますわが父のみ旨を行う者だけが入るのである。》 (7章21節) という御言葉が
あります。 父のみ旨を行うとは、今日の箇所では、小さい者への施しを意味します。 さらに、《あなたは施し
をする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである
。 すると隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう》 (6章3節~4節) と同じく山上の
説教の中に施しについて書かれてあるのです。 ここでの左の手の無知は、右手だけが自分のしたことを知って
おり、しかもそれを誇りにすることがない。 つまり、その誇りに、偽善がないことを指します。 私たちは、しばし
ば自分の行ったことを誇りに持ち、人に語り、見てもらうことで喜び満たされます。 しかし、マタイでは、この偽
善から自由になっている人が、永遠の命を与る者となるのです。 《主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見
て・・・》 (37節) とあるように。

ここで、和田先生は一つの物語を思い出したそうです。 以前、所属していた教会の学童保育で 「靴屋の
マルチン」 の劇を行いました。 原作は、ロシアの文豪トルストイが書いたものです。

ある晩のこと、マルチンが寝る前に 「明日、お前に会いにいくよ。」 という主イエスの言葉を聞きます。 マル
チンは心待ちにしていましたが、夕方になってもイエス様は現れません。 しかし、マルチンはその日、雪かきをし
ていた老人に暖かいお茶を勧め、幼児を背負って凍えそうになっていた貧しい母親に冬服を与え、りんごを盗
んで老婆に追いかけられていた少年の代わりに、代金を支払ってやったのです。 夕方になっても、とうとうイエ
ス様はお姿を見せませんでした。 ところが、その晩、主イエスはマルチンに、「わたしは今日お前のところに行っ
たよ。」 と突如語り掛けてくるのです。 マルチンは、理解できませんでした。 舞台上では、そこでスポットが灯
され、昼間、マルチンが助けた人たちが次々と現れます。 「あれは、わたしだったのだよ・・・」 と。

この物語を通し、分かることは、一人の人間の施しがイエス様から偽善とみなされなかった、ということです。
 《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした》 と王に認められたように、偽善を排除した施しがここに
なされたのです。

翻って、私たちが受け止めなければならないことは何でしょうか。 25週に渡り、聖霊降臨主日で、キリスト
は何度も私たちに教え、「最も小さい者」 として、人に仕える生き方を示されました。 またアドヴェント(待降
節)の前に、すべての民族を裁き、人生の総括がキリストご自身によってなされると、今語られているのです。 
私たちがキリストを信じ、いかに御言葉を日常生活の中にしっかりと取り入れていく生活をしているかどうかが測
られています。 あらゆる場所で出会う人に、私たちはどのように接しているのでしょうか。

同時に、私たちのどんなに小さな業をもキリストは見逃すことはないというのです。 私たちの施しが、人が見
ていても、いなくても、キリストがしっかりとその受け手となってくださるのです。 ですから、人生の総括は信仰者
の生き方そのものに関わってくる事です。 それは、何のごまかしも効かない、私たちの存在すべてがキリストによ
って明るみにされるということを指しています。 そして、再臨の日に 「最も小さい者」 として現れたキリストが、
言葉と共に迫ってくるのです。 キリストと共に歩んだ者にとって、偽善はこの時にキリストによって排除されてい
きます。

この世を歩む中で、私たちの施しは、いかにしても偽善をはらむものです。 にもかかわらず、その罪のために
「最も小さい者」 として、十字架に架けられたキリストが今日、示してくださったのです。 キリストご自身がまず
先に、私たちの前で 「最も小さい者」 として現れたのです。 私たちは、あらゆる時に、あらゆる場所で目の前
に立つ 「最も小さい者」 を信仰と共に見つめていきましょう。 そして、私たちの小さな業が失望と徒労に打ち
砕かれても、決してキリストは見逃されない、その希望を与えてくださる主イエス・キリストに信頼し歩みを続けて
まいりましょう。

お祈りいたします。

主なる神さま。 日常生活の中で、私たちは「もっと小さい者」となられたあなたを忘れてしまいます。 しか
し、どんなに小さい私たちの業をも、あなたが受け手となってくださったことに感謝いたします。 どうか、私たちが
、人生の総括の時に永遠の命を受け継ぐ者となることが出来ますように、手を差し伸べ、共に歩んでください。
 

主の御名によって祈ります。 アーメン

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