2023年  11月 5日  全聖徒主日(白)

      聖書 :  ヨハネの黙示録          7章 9節~17節
            詩篇                34編2節~11節、23節
            ヨハネの手紙Ⅰ          3章 1節~3節
            マタイよる福音書        5章 1節~12節

      説教 : 『 死はもう一つの存在の在り方?! 』
                             木下海龍牧師
      教会讃美歌 :  238、 371、 331、 266

私が去る9月20日の午後6時半過ぎに、罹りつけ医院から救急車で大病院に搬送されて、急遽入
院、そこでも血液検査の結果、直ちに、胆嚢摘出手術の執行となりました。、翌朝、目が覚めて、意識
が戻った時に思ったのは、命拾いをした!! という思いでした。それと合わせて、痛みに耐えるだけ
が、精いっぱいの状態のままで、死ぬのは嫌だなあ。ということでした。静かに息を引き取る前に、家
内や子供たちに向かって「いろいろと、たくさん、ありがとう!! みんな仲良く生きて行ってね。お互い
のチガイを尊重しながら助け合ってね!!」と、言う暇もないままに逝くのは、たまらないなあ!!
 その点、昨年亡くなられた井上澄子姉は凄いですね。お亡くなりになる10日程前に、佐野三四子さ
んと、入院先の救世軍病院を見舞ったのですが、彼女の声はほとんど聞こえませんでしたが、一緒に
賛美歌を歌い、詩編を読み、祈りました。そしたら、発話が大変な状態の中で、彼女からは、「あ・り・
が・と・う」と返礼されました。
 こうした経験もあって、普段でも考えているはずなのですが、今回はことさらに、生きている事とは?
! 死ぬるとはどういうことなのか、などなど、考えたり、書籍を開いたりしました。
 そうした中で、一つ特徴的な考え方に出会いました。

中島らも著「僕にはわからない」Pp272 講談社文庫 2008年11月14日発行彼の短文57編をまと
めた書籍でしたが、4番目の題目が「人は死ぬとどうなるのか」でした。
著者はジョルジュ・バタイユの「連続」と「不連続」という考え方を援用して、「連続」とは「種」としての生
命の縦軸の連なりを示し、「不連続」とは各個体の死によって起こる断ち切れを示す。人間という種の
生命を考えれば、極端な言い方をすれば人間は死ぬことはない。個の巨大な『源人間』みたなものが
あって、それが新陳代謝を繰り返しながら半永久的に生きていく、という存在形式だと考え得るのであ
る。地球上の生物は多数の個体に別れて、各個体は死によって消滅するが生殖によって種としての生
命は連続していく形態を「選んだ」わけである。例えば氷河期や大地震といった地球規模の異変を考え
た場合、種の生命が持続する可能性は多数の個に分かれていた方がはるかに高くなる。原人間だけ
では、そいつが死んでしまえば種はお終いなのだ。多数の個に分かれていればそれらは一部が残り、
適者生存して地球の状況にビビットに対応しながら進化して行くことができる。我々が個に分断され、
死の因子を遺伝子の中にプログラムされているのは、まさにこのためである。種としてのフレキシビリ
ティを保つためには全体を有限の個によって構成しなければならない。我々の死、つまり個々の不連
続が全体の連続を支えているのだ。その意味では我々は「永遠に死なない」と考えても誤りではない。
この考えをつき詰めてゆけば、「死後の世界は」みたいなものはどこにも存在しないことがわかる。
<以上紹介>

 こうした明確な考え方が存在することを了解しながら、私ども自身はどのように考えたら納得がゆくの
だろうか。また自分は「死の問題」をどのように受け取りたいのだろうか。と思うわけであります。

本日の福音書は山上の説教が取り上げられています。
マタ 5:1 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って
来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

イエスはここで、一般論的倫理を語ったのではなく、山の中腹までついてきた弟子たちとその背後にい
る群衆の姿を目の前にして口を開いたのでした。

 5:3 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

 ここでイエスが言われているのは、外的にも内的にも一切を神に期待するよりほかはない人間の姿
を言っているのです。ルターが晩年に言ったとされる言葉「われわれは乞食だ。それは本当のこと
だ」
と言った人間の姿であります。イエスは「こころの貧しい人たち」或いは、「貧しい人たち」を、
幸いである」
と祝福されるのです。このことは、私たちが「幸いだ」と見ている世界とは、別の目で見て
いるのです。イエスの目には別の現実が見えているのだと言わざるをえません。

 主イエスは、三節の後半で、「天の国はその人たちのものである。」と語っています。この言葉の
逐語訳にすれば「なぜなら天の国は(今すでに)彼らのものだから」となります。外的・内的に貧しい
者たちには、今すでに天国は与えられている。それゆえに彼らは、さいわいな者であり、祝福さるべき
者たちである。それが、イエスの目が見ている現実であったのです。

さらに、主イエスの言葉を見てみましょう。

12:28 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの
ところに来ているのだ。」
と。

イエスの到来によって、神の国は―天国は、もうすでに私たちのところに来ており、現在
のことになった
のです。それが、聖書が私たちに告知していることであります。

ルカ17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。 17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に
、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

マタ10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも
天の父の前で
その人をわたしの仲間であると言い表す。」

私自身が「神の国」を受け取っている事の一部を、語ってみたいと思います。
その一つ  柴田敦子さんの授洗体験から。
16年間、精神病院におられて、既に余命わずかであると医師から告げられていた彼女と問答をしまし
た。それは鋭い切羽詰まった問答でした。

賛美歌を二つ歌い、主の祈りを一緒に祈った後で、彼女には教会の洗礼を受けたい願いが在ることを
ご両親から、伺っていました。そこで、私「あなたはイエス様のところへ行きたいですか!?」 と。
彼女はすかさず「ハイ! ゆきたいです!!」と。

 わたし「あなたは洗礼を受けたいですか?!」 彼女「ハイ! 受けたいです!!」
私は、立ち会っていた看護師に用意していったガラスの器に水を所望して、

「父と子と聖霊の御名」によって彼女に洗礼を授けました。

もしも、彼女との問答から、いささかの迷いと曖昧さを私が感じたならば、彼女が癒されること、心の平
安を祈って、洗礼は他の日を待つことにして、病院を後にしたことでしょう。  実は私には迷いがあっ
たのです。この方は初めて会う方でありました。精神病院に16年間もおられた方です。

 自分は、この親娘に人間的に同情して、洗礼を授けて、聖礼典を穢すのではないか。

 けれども、この問答後の 一瞬の時間に、私の身体と魂と霊を横切るものがありました。

   神様は、彼女の16年間の篤い祈りと願いを、聴きあげられて、この日の洗礼の出
来事を成就されたのだ! 神様の働きが無ければ、私の前に立ちはだかる3重の扉を次
々と開けさせて、私がこの病室に至ることは全く不可能な事柄であったのだ!!

    私は神学校の卒業試験を終え。卒業論文を提出し、総会で選ばれた教師委員会
による教師任用試験をかろうじて通過した程度の自分である。按手式を受けて、公に牧師
職に就いたばかりの自分。

   宗教教団組織からは、任用はされたのだが、真の牧師である保障ではない。それ
はその後の課題の中に私は入ったばかりである。

   神様はこの洗礼を計画されて、その使者をして、病と病院に囚われている彼女のと
ころに
私を遣わされたのだ。牧師職とは本質的に、何をなすべきかを教えてくださったの
だ。
その職務の大切だと誇りを与えて下さった神の出来事であたのだ。

   すべてを剥奪されていた彼女は、「イエス様のところへゆきたい」というただ一つ
の願いと祈りを、神様が成就されて、天の国に彼女をお迎えなさった事を自分に目撃させ
たのだ。

その後、彼女は賛美歌を歌い、祈り捧げる一週間を経て天の国へと召されて逝かれました。

われわれの目から見れば、この世の幸いのすべてを剥奪された彼女に、天のみ国をお与えに
なられたのでした。一切を神に期待するほかはない状態の中から、彼女は喜び勇んで天の国へ
と旅立ったように、私もまたイエスのみ国へ旅立って、この地に遺され人びとの平安を祈る者に
なろう!!  と、熱く思いつつ、主イエスが召し出した牧師職の尊さを私に教えられたのでござ
いました。

 

   祈りましょう。

主イエスよ、父なる神よ

富士教会に関わっておられた多くの兄弟姉妹方が、あなたのみ国に召されております。

いつの日にか、私どももまたあなたのみ国へ参ります。

主の身元で、愛する者と相まみえ、愛と尊敬の抱擁の時をお与えください。

それまでの日々が、あまたに守られて、地上での己の務めが果たせますように、

一人一人を神の御声へと誘い導いてください。

 

十字架と復活の主の御名によって 祈ります。  アーメン。

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