2023年  12月 10日  待降節第2主日(紫)

      聖書 :  イザヤ書              40章 1節~11節
            詩篇                85編2節~3節、9節~14節
            ペトロの手紙Ⅱ           3章 8節~15節a
            マルコよる福音書         1章 1節~8節

      説教 : 『 良きおとずれ 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  7、 1、 294、 391

「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で今日の福音書の物語は始まります。福音書の中で
最初に書かれた福音書「マルコによる福音書」のそのまた初めです。「マルコによる福音書」はとても簡潔に書か
れておりますので、次のように読み替えてもよいのではないかと思います。「神の子イエス・キリストの福音はこの
ようにして始まった。」と。

いったいどのようにして神の子イエス・キリストの福音が宣べ伝え始められたのか。それが今日の福音書のテ
ーマです。それは、ちょうど、私たち一人一人にとっても、いつ、どんなきっかけで教会に行くようになったかが信仰
生活にとって大きな意味を持っているように、「福音」がどのように始まったかということは、神様の救いがどんなも
のであるかということと深く関わりをもっているからなのです。

まず「福音」という言葉について、少し考えてみましょう。「福音」という言葉は今ではほとんどキリスト教会
以外では使われない言葉です。しかし、イエス様の時代、「福音」という言葉は宗教用語ではありませんでした。

福音、この「良い知らせ」という意味の言葉は、王様の即位を意味していました。そして、確かに、新しい
王様の即位によって、人々の生活が良くなることもあったでしょう。牢獄につながれている者には恩赦もありまし
た。しかし、時には、新しく即位する王様によっては人々の生活が悪くなることもあったのです。ですから、イエス
様の時代、ローマ帝国にイスラエルが支配されている時代、人々は「福音」という言葉に飽き飽きしていました。

マルコはこう言います。「神の子イエス・キリストの福音の初め」今度の福音は人間の王様のものではない。
神の子イエス・キリストの福音なのだと・・・

神の子イエス・キリストの福音とは何でしょうか?

それは、マルコが福音書全体を使って語っていることですので、一言で説明することはできませんが、まとめ
てみるならば、第1に人間の王様のように裏切られることがなく、第2にそうであるからこそ、私たちがそのために
一切を捨てるに値するものであるということです。

それでは、そのように喜ばしい知らせはどこで、どのようにして始まったのでしょうか。普通、王様の即位の福
音は神殿で宣言されました。しかし、神の子イエス・キリストの福音は荒野で始まったのです。荒野とは、町の
中とは違って野獣も出れば、時には強盗も出るところです。ですから、イスラエルの町は城壁があり、それらの外
敵から守られるようになっていたのです。その城壁は荒野と町とを隔てるものであり、城壁の内部は神様の支配
される場所、城壁の外側は悪魔の支配の場所と考えられていました。神さまの福音は、その城壁の外側で、
荒野で、洗礼者ヨハネの口を通して語られたのです。

洗礼者ヨハネは、そこで、文字通り人々に洗礼を施していました。当時、洗礼は異邦人が、つまりユダヤ
人以外の者がユダヤ教徒になる時に必要とされたものです。今までは異教の世界で暮らしていたけれども、今
からは天地を創造された神様を信じて生活する。その悔い改めのしるしとして、彼らは全身をヨルダン川の水の
中に沈めたのです。これは、一度溺れ死んで、水から上がった時には、新たな命にいかされるということの象徴
です。ですから、洗礼は神様に選ばれた特別な民であるユダヤ人には必要ないものとされていたのです。

しかし、洗礼者ヨハネは、その悔い改めの洗礼を、彼のもとに集まって来るユダヤ人にも施したのです。荒
野でのユダヤ人に対する悔い改めの洗礼、これは何を意味するのでしょうか。荒野というのは、よっぽどのことが
ないと行くところではありません。また、洗礼は、ユダヤ人であれば受ける必要はないと思われていました。ヨハネ
が荒野で、そこに集まるユダヤ人に洗礼を施していたというのは、意識的に神様の救いを考える者を呼び集め
たということなのです。

しかし、意識的に悔い改めただけですべてが変わるのでしょうか。確かに悔い改めた一人一人の意識と生
活が違ってくることは確かでしょう。でも、それだけで、変わることのない福音と言えるのでしょうか。ですからヨハネ
は、そこで神の子イエス様の出現を指し示したのです。

6節には、そのヨハネの姿が描かれています。らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め・・・。人々はこのヨハ
ネの姿に預言者エリアを思い出したに違いありません。そして、エリアが救い主の先がけであると言われているよ
うに、ヨハネもイエス様の先がけでした。

ヨハネはイエス様を指し示し、イエス様のことを「わたしよりも優れた方」と呼びます。そして、「わたしは、か
がんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と続けます。当時、履物のひもを解くのは奴隷の仕事でした
。洗礼者ヨハネのわざとイエス様のわざはこの位の差があると言うのです。

それはどうしてなのでしょうか。ヨハネの言葉を借りれば「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その
方は聖霊で洗礼をお授けになる。」ということになりますし、もう少しわかりやすく言えば、ヨハネが宣べ伝えたの
は悔い改めによる救いであり、イエス様が私たちに与えてくださったのは、神様のひとり子の十字架の贖いによる
救いなのです。

悔い改めというのは、確かに大切なことです。でも、人間は弱い者です。いつ悔い改める前の状態に戻っ
てしまうかもしれません。これに対して、イエス様の福音、即ち私たちに対する救いの約束は、私たちをそのまま
の姿で神様が受け入れてくださるという約束で、変わることがありません。ヨハネはそのことを宣べ伝えたのです。

ですから、私たちも、今から誕生をお祝いしようとしているイエス様こそ、私たちの罪を許し、私たちをそのま
まの形で、姿で受け入れてくださる方であることを覚えたいものです。

マルコがこの福音書を書いたのは紀元70年頃と言われます。その時代は、まさに人々にとって荒野とも呼
べるような時代でした。強大なローマ帝国の支配、キリスト教会に対する迫害、ユダヤ教との対立、教会内部
における異端の発生・・・。このような中で、キリスト教会はこのイエス様の福音こそ宝として宣べ伝えてきたので
す。

今の時代はどうでしょうか。キリスト教会に対する直接の迫害はほとんどありません。イエス様のことを信じ
ていなくてもクリスマスをお祝いする時代です。経済的にも豊かになってきました。その意味ではヨハネの時代と
は雲泥の差かもしれません。

しかし、どうでしょうか。ヨハネの時代に比べて私たちは遙かに幸せになったと言えるでしょうか。心配するこ
とは何もない、そんな日常生活を送っているでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちは様々な問題、課
題の中で暮らしているのです。

現代という時代で、この福音の意味はますます大きくなっているのではないでしょうか。そして、その福音を
宣べ伝えるという私たちのつとめも、決して小さくはなっていないのです。

もうすぐクリスマス。私たちは、あの洗礼者ヨハネが宣べ伝えたように、イエス・キリストこそ真実の救い主で
あるということを、このイエス・キリストの福音こそ変わらない「良きおとずれ」であるということを伝えていきましょう。

<祈り>

父なる神様、あなたは変わることのない救いの約束を、御子イエスを通して私たちに与えてくださいました。
しかし、まだそのことを知らない人々がたくさんいます。どうか私たちをあなたの福音を宣べ伝える者として、この
世に遣わしてください。洗礼者ヨハネが御子を指し示しましたように、私たちもあなたの御子を指し示すことがで
きますように。主のみ名によってお祈りします。アーメン


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