アドベントのこの時、私たちに与えられた聖書は、救い主の道を前もって整えた洗礼者ヨハ
ネの証言の箇所です。ヨハネによる福音書が描き出す洗礼者ヨハネ(以下、「ヨハネ」)につ
いて思いを巡らしてまいりましょう。福音書が書かれた1世紀末の迫害下にある当時の教会に
おいて、ヨハネは信徒の模範的な姿として描かれています。その姿は「自分を輝かせるのでは
なく、救いの光を指し示す」、祝福に生きる姿でありました。
それは、まず自分自身がその光のうちにあることを知っていたからこそ生じたことであると
思います。イエス・キリストは神様の光を現したまことの光であり、イエス・キリストの光を
指し示したのがヨハネであります。ヨハネは、神と主イエスの光の中に存在する自分を知り、
そこでできることをできるだけ成したのです。このヨハネの姿が私たちに真実な歩みを教え導
いてくれると思います。聖書から聞いてまいりましょう。
ヨハネの洗礼活動は地方一帯に及ぶ信仰覚醒の大きなうねりを生じさせていました。実に多
くの人々がヨハネの勧めに耳を傾け、神様に立ち還っていく悔い改めの歩みに進んでいきまし
た。もしかしたら彼こそがメシア(キリスト 救い主)ではないかと多くの人々が思っていま
した。
ヨハネは誠実に神様のお働きに自分を従わせようと日々励んだことでしょうが、人間的な誘
惑などなかったとはいえないだろうと思います。大勢の人々が自分の声に沿って歩みを正して
ゆく。彼は自分の力を誇り傲慢になってしまう誘惑はあったのではないでしょうか。創世記が
神話的に普遍的な人間の罪、すなわち神のようになろうとする性質は誰にでもあります。ヨハ
ネにもあったでしょう。
このヨハネのもとに、エルサレムから宗教指導者たちがやって来て彼に尋ねます。「あなた
は、どなたですか」。「あなたは(お前は)(一体)誰なんだ」という意味合いです。待望さ
れているメシア・救い主なのか、メシア到来前に来るエリヤあるいは他の預言者の再来なのか
と問われ、「わたしはメシアではない」と、また他の問いにもはっきりと否定して答えました
。そして、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」。自分は「声」に
しか過ぎないと証言し、また「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたが
たの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひも
を解く資格もない。」と言います。当時多くの人々がヨハネに対し偉大な指導者だと感じてい
る中で、ヨハネその人は傲慢になるのではなく神様にのみ従う姿に徹しているのを、このやり
取りから伺い知らされます。
「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」とヨハネは証言しています
。「私たちの中に」という意味の言い換えです。つまりヨハネは、私たちの中に救い主が来て
おられるのを身をもって経験していたし、そのことの証人としてこう言っているのです。ヨハ
ネはイエス・キリストから受けた救いの中で彼の活動をしていました。
ヨハネは自分が何者であるかを知っていました。光と出会い、光の中に存在する自分、神様
と救い主の幸いの中にある自分を、神様に愛されている私、罪赦された罪びとである私、そう
いう本当の私を知っていたのです。彼にはこれで十分でした。自分で自分を人よりも上に置こ
うとしたり、威張ったりする必要はありませんでした。「私とは誰なのか」。彼は答えます。
私とは神様に愛されている私である。存在そのものを包み込む神様の絶対肯定を受けて、彼は
神様に立ち還り、救い主を指し示し、神様に愛されている自分と他者のすべてを大切にして歩
みました。なぜすべての人を大切にできるのでしょうか。それは彼がすべての人の中に共にお
られる救い主を見ていたからです。
宗教や政治の中心地エルサレムから宗教指導者がヨハネのもとにやって来ました。それはヨ
ハネには何の権威があって、自分が何様だというので神様に立ち還らせる洗礼活動をしている
のかを問いただそう、答えのいかんによっては糾弾し、活動を止めさせようという思いをもっ
て近づいて来たでしょう。ヨハネに敵対的に向かって来ている人たちです。
その彼らに対して「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」と言いま
す。あなたがたの只中には、あなたがたが今は知らないだろうけれども救い主が共におられる
のだ、という証言をしているのです。「あなたがた」とは相手に対して言う言い方ですが、そ
の内実は「私たち」です。この私たちの「世」には救い主が共におられる。そこに私たちは生
かされている。私たちが作るような敵も味方も実はなく、すべての人は平等にこの救いの中に
共にいるのだ、という証しをしているのです。
この開かれた世界、我から解き放たれ「愛されている自他」を生きられる自由な世界にヨハ
ネは生かされ、救い主の到来の喜びに満たされ、慈しみ深い神様の中でできることをできるだ
けなさせていただいている、そういう証言をヨハネは体現しているのだと思います。
皆様、自分はどういう者であると思っておられるでしょうか。また、私が私であるとは、私
が私になるということの意味を思い巡らしていただきたいと思います。神様の中にある私、神
様に愛された私のことを、賛美歌「主われをあいす」は歌っています。私が判断し評価する私
、他者が評価する私、様々に私のことを見つめる視点はあるでしょう。ここで、私たちは根源
のこととして私のもとに与えられている真理を、それは忘れてしまいやすいことですけれども
、ヨハネが指し示してくれている本当の事を心に宿して歩みを進めたいと思うのです。
神様の愛の灯が私たち一人ひとりに灯っています。ヨハネからの勧めを聞いた私たちは、救
い主が与えられ、この身に灯っている神様の灯を心に覚えつつクリスマスに向かって歩みを進
めてまいりたいと思います。祝福をお祈りいたします。
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