2023年  12月 24日  待降節第4主日(紫)

      聖書 :  サムエル記下           7章1節~11節、16節
            詩篇                89編2節~5節、20節~27節
            ローマの信徒への手紙     16章 25節~27節
            ルカよる福音書          16章 26節~38節

      説教 : 『 主イエスが 共におられる 』
                       木下海龍牧師
      教会讃美歌 :  14、 20、 30、 25
 2020年から、改訂共通聖書日課(RCL)を日本福音ルーテル教会は用いております。これは世界基
督教協議会に加盟しているカソリック教会、聖公会、世界ルーテル教会連盟をはじめ多くの教会が、教
派制の特徴を生かした数カ所の変更と付加をしながら、基本的にはこのRCLの聖書日課に沿った聖書
個所を主日の聖書日課として用いるに至っております。
 その特徴の一つが、待降節第4主日に採用された福音書の個所が、イエスの受胎告知の聖書個所
が取り上げられている事であります。
 ルカ1:28 天使は、彼女のところに来て言った。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
 本日のルカ福音書から、説教題を頂き、「主イエスが 共におられる」といたしました。
 「主があなたと共におられる」ということは、聖霊降臨後の時代を生きている者にとって
は、その主はマリアの中にイエスが宿っておられるゆえの内実と深く繋がっています。
 それ故に「主があなたと共におられる」ことの証として受け取っていいでしょう。
 マリアの中に「神の子イエスが来られて居らっしゃる」
 神の御子が真の人間としてこの世に来られる道筋として、「選ばれた人である乙女」の胎か
ら生まれて、この世に来られたのです。その主があなたの胎にやどっておられる!と、マリア
は聴き取ったのでした。当然、マリアは驚愕したのでした。それ故に天使は「マリア、恐れる
ことはない。」
と、言わざるをえなかったのです。この受け答えには神秘的な意味合いが込め
られております。
 今日の時代状況から考えればそんなふうに思います。と言いますのは、マリアの内に神であら
れる主が宿っておられるからです。
 私たちは信仰対象として、すなわち、他者なる神を、また対象としてのイエスを信じてい
ると受け取っている事でしょう。すなわち、私の前面に存在されておられ、或いは遥か彼方に
おられる神を仰ぎ見て信じる。と、こういうふうにまあ考え、受け取っているのです。
 ところが、すでにマリア自身が自己決定するはずの人生の選択を超えて、マリアに主イエスが
宿ったのです。このように私ども自身が真実に、主イエスを信じるとは、我々の中に来て来て
おられる、我々が選び取る前から、我々の命・人格の内側に来られ、内在なさったのだ、と信
じ受け止めて良いでしょう。
 実は、「信仰」という言葉は、一つの概念のなんですが、実態は信仰が自分の内側で自覚す
る前に、言葉では説明しきれない「神が介入した神秘」が起こっていたのです。信じ生きると
いう実態・心のありよう・生存する状態において、主があなたと共におられる、そのように捉
えていいのではないでしょうか。
 マリアはご自身の中に主イエスを宿し、いただく、そうした事態を恐れながらも、そのことを
受け入れて、身体全体・気持ち全体で受け入れるのです。マリアの応答「お言葉どおり、この
身に成りますように。」
とは、そのことの受容であったのです。受容が在って、理解と、慰め
と、イエスを出産する勇気を与えられてゆく… そのように、私どももまた受け取ってゆける
のではないでしょうか。
 言葉で説明するには難しいのですが、 マリアは天使ガブリエルと対峙している時が、客観的
対象としての神・天使ガブリエルと天使の言葉ではなくて、既に主イエスを身内に宿っているがゆ
えに、信じる対象はすでに自分の中心に、マリア自身の計らいを超えて、存在していて、主客が
分けがたく一つとして自覚され、自分の内側から聞こえてくる声をマリアは聴き取ったのでした。
このことが「奇跡」であり、自分では思いつかない内容の言葉であったので、天使が自分に語って
いるのだと、マリアは受け取っているのです。見るべき人が見れば、眼に見えない存在の前で応
答している姿として眺められたことでしょう。マリアが聴き聴従している様子が認識出来たでしょう
。福音書記者ルカがまさにそうしたマリアを目の前に見ているがごとくに書き記しているのであり
ます。
 折口信夫の「死者の書」を論じた藤原茂樹(慶応義塾大学名誉教授)の言葉から推察すれば「
死者の書」の主人公の女性を「かむさびた素質の高さ」という言葉で表しておりました。この言葉
はわたしが探していた日本語の表現でした。神様および、神的な存在に敏感に感受する素質を
生まれながらにして持っている人を表現する言葉になっていると思ったのです。
 そこで乙女マリアについて考えました。彼女の素性について新約聖書の中では、説明的な文書
としてはほとんど語っておりません。
 「死者の書」の主人公である女性は天皇家に最も近い家柄の藤原南家の郎女イラツメとなって
います。
 カトリック教会ではマリアの立場はとても高く、崇拝の対象になっております。
 シリア正教会は、マリアを「yoldath aloho」、すなわち「神をもたらした人」と呼びます。
 なぜなら、彼女が真に受肉した神であるキリストを生んだからです。
 ルター派ではマリアには高い尊敬と深い敬愛を抱いております。
 キリスト教教義的には、イエスは分かちがたく神であり、人であると定義されております。
 マリアは人間イエスの母であり、同時に神であるイエスの母であると定義されております。
 ルターは「マリア賛歌」の著書に於いてマリアの信仰を高く褒めたたえております。
 これらのマリアに関する教義は5世紀カルケドン公会議(451108日から111日)で定め
られたものです。
 1世紀前後に書きあげられた福音書には普通に信仰深くイエスを愛して育てた母親として描か
れております。マリアの出自についての記述はございません。
 ルカ福音書146-55節にあるマリアの賛歌として知られているマリア自身の言葉からマリアは
どんな人であったかを推し量ることができます。今日は詳細には触れられませんが・・・。
 4748節の言葉から推しはかっても、神のプレゼンス(存在)に触れて打ち砕かれた魂の響き
が感じられます。殊に38節「視よ、われは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますよ
うに。」
 48節「そのはしための卑しきをも顧み給えばなり、視よ、今よりのち萬世の人、われを幸福とせ
ん。49節 「全能者われに大いなる事を為したまへばなり。その御名は聖なり、その憐みは代々
、畏(かしこ)み恐るる者に臨むなり。」文語訳
 殊に 「この卑しき婢女(はしため)をも顧みられる神を褒め称える」 箇所の言葉から彼女の神
の実在体験がうかがわれます! ここのところに「(かむ)さびた素質の高さ」が伺えると考えておりま
す!
 数にも入らない小さな自己存在の気づきは偉大な神に見()えた時の人間の感覚に他なりま
せん!
 神の側からの一方的な選びではありますが、なぜ彼女であったのか?
 それは神の側の自由な選びではありますが! それでも彼女が選ばれる何かは何だったのか。
 それにあえて触れるならば、先に引用した折口信夫の言うところの「かむさびた素質の高さ」に
あると言えるのではないか。それゆえに神であるイエスの母として選ばれたのであると推察する
のです。
 祈りましょう
 主よ、あなたは私どもが全く気付く事のなかった、天地創造の前に、わたしたちを愛して、イエ
ス・キリストに於いてお選びくださいました。さもなければ、束の間に消え去る泡の如きものでご
ざいました。

 神様、わたしどもの命を、ご自分の前で、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストをわが内
にお贈りくださいました。そのキリスト・イエスの御血によって贖われた者として、御子イエスをわ
が身によって証しすることができますように導き、強めてください。 アーメン

                            
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