2023年  12月 3日  待降節第1主日(紫)

      聖書 :  イザヤ書              63章19節b~64章8節
            詩篇                80編2節~8節、18節~20節
            コリントの信徒への手紙Ⅰ    1章 3節~9節
            マルコよる福音書         13章 24節~37節

      説教 : 『 イエスの言葉は滅びない 』
                       木下海龍牧師
      教団讃美歌 :  94、 225、 525、 515

待降節とは、この世の最終的な時の到来を待っている者の生き方を改めて考え、備えなおす時期で
あります。そうした時期として、教会は年に一度、教会暦の中に待降節を設定しれているのです。

無援孤立の中で、自分一人でするのではなく、主イエスと共に歩みつつ、最後の時に向かって、兄弟
姉妹と共に歩みゆく道筋に改めて立つ気持ちです。そのようにして、キリスト者として、今を大事に生き
るとき、人の子はすでにわれわれのうちに到来していると言えるのです。

一コリ1:9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリスト
との交わりに招き入れられたのです。

マルコ13:33 「気をつけて、目を覚ましていなさい。」
待降節はイエスの誕生を喜び待つ教会の在り方であり、時の過ごし方でありといえましょう。

寺山修司 「橋桁にぶつかる夜の濁流よわが誕生は誰に待たれし」p221

33節「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからであ
る。」

今、聖書を読んでいる私どもには分かっていることがあります。
    主イエスがこの譬えを話されていたのは、過越祭と除酵祭が二日後に迫っていたこと。
    過越祭を祝って祝いの食事を済ませた主イエスと弟子たちはオリーブの園に向かいました。
      そこで、主イエスは捕縛されました。
    その翌日に、十字架刑によって主イエスは命を落とされました。
    三日後の日曜日の早朝に、主イエスは復活されました。
    五旬節を記念する二階の集会所に、集った弟子たち全員に聖霊が下りました。
    弟子たちは、勇気と希望を抱いて、主イエスの十字架と主イエスの復活を、迫害によって追
      われて逃げてゆく先々で、宣べ伝え始めたのです。
    その結果が、今日の私どもの日本福音ルーテル富士教会が存在するに至って、現在の私ど
      もが生かされてあるのだ、と受け取っていいでしょう。

さらに告白するならば、「目を覚まして生きる」その生き方は、イエスの言葉は永遠に滅びない、と固く
信じて、時が良くても、悪くても、正しい事を選んで実践し、出会った人を分け隔てせずに大切にして愛
すること。これが主イエスを愛する者が目覚めて生きることではないのか。
 主イエスにあって、今を大事に生きるとき、人の子はすでに、私どもの内に到来しておられるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、す
べてが新しくなりました」(コリント人への第二の手紙517)という聖句を信じ、キリストに留まり続けるこ
とです。聖化もまた、信仰により、恵みによって実現します。
パウロは第1テサロニケ5:23で、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださるよう
に。主イエス.キリストの来臨の時、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだ
が完全に守られますように。」 と祈っています。

< 少し 寄り道したところからの視線 >
「今、私たちが学ぶべきこと」p163172 「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」の話を紹介しております。
とても面白いので、短く紹介してみます。
「学ぶ」というのは一言で言えば「別人になること」である。
 三国時代の呉の国に呂蒙りよもうという将軍がいた。勇猛な武人であったが、惜しいかな学問がない
。主君の孫権が「将軍に学問があれば」と嘆じたのに発奮して、呂蒙りよもうはそれから学問に励んだ。
 しばらくしてのちに同僚の魯粛ろしゆく が久しぶりに呂蒙に会ってみると、その学問の深さ見識の広さ
は過っての彼とは別人であった。魯粛は
「君はとてもかって『呉下の阿蒙』と呼ばれていた人とは思え
ない」と驚嘆した。
これに対して呂蒙は「士別れて三日、すなわちさらに刮目して相待すべし」(士たるもの三日合わないで
いると別人になっているぞ)、と。
 学びとというのは「入れ物」自体が変わることだからである、「刮目」してまみえないと同一性が確信で
きないほどに人間が変わることだからである。学びが深まれば、話す内容が変わるにとどまらず、表
情も、声も、挙措(立ち居振る舞い)着付けも、すべてが変わる。P164
「学ぶ本人が別人となる事が学びである」
単純に知的に「欠けているところがあって、それを充填することはあるが、それは「学び」と呼ぶことが
できない。それはむしろ「補充」と呼ぶべきであろう。「補充」なら「入れ物」は同一性を保ちながら「中身
」だけが増えてゆくありようを正しく伝えられる。
「学ぶプロセスで子供は別人になる」のである。
引用書籍:内田樹著「街場の成熟論」文藝春秋 Pp294  20230915第1刷発行

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