2023年  2月 26日  四旬節第1主日(紫)

      
聖書 :  創世記                2章15節~17節、3章1節~7節
            詩篇                31編
            ローマの信徒への手紙      5章 12節~19節
            マタイによる福音書        4章 1節~19節

      
説教 : 『 神の子なら 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読
      教団讃美歌 :  67、 244、 280、 515


イエス様は公生涯に入られる前、まず洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時、『これはわたしの
愛する子、わたしに適う者』と言う天からの声がありました(マタイ3:17)。これは、父なる神様がイエス様こそ「
ご自分の愛する子」であることを宣言された重要な言葉です。その父なる神様の認証を受けて、イエス様は「
神の子」としてのご自分の活動を始められました。しかし、イエス様が「神の子」であるとは一体どういうことなので
しょうか。与えられた聖書の日課は、そのイエス様の「神の子性」を問う悪魔との厳しい戦いでもあったのです。
40
日間断食された後、『誘惑する者が来て』イエス様にまず最初の試みを仕掛けます。それは、もしお前が『
神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』というものでした。イエス様は40日間断食されて『空
腹を覚えられ』ていました。誘惑者、誘惑しようとする相手の一番の弱い点をよく知っています。空腹な者がそ
の時に一番欲しているものは、豪華な家や広大な土地ではなく、また名誉ある地位や光り輝く勲章でもない
でしょう。極端に飢えに悩まされている者がその時に欲するものは、一握りの「おにぎり」、ひとかけらの「パン」、
ひとしずくの「水」のはずです。

神の子であるなら、奇跡を起こして石をパンにすることなど実にたやすいことです。しかし、イエス様は神の
子としての力を、ご自分の満足のためには使われないのです。自分の楽しみ、自分の満足を得るために、イエ
ス様は「神の子」としての力を受けられたのではありません。イエス様の神の子としての奇跡の力は病気で苦し
む者、障害によって悩む者、その他のあらゆる悲しむ人々への癒しのためにこそ付与されたものです。それ以外
の目的で驚くべき奇跡の力を用いることは、父なる神様の御心ではありません。イエス様はご自分の力(奇跡
を起こす力)を誇示することによって、ご自分が神の子であることを人々に知らしめる方法(石をパンに変える)
を斥けられました。

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』というイエス様の言葉は
、自分の力を誇示したり、自分の能力に頼って生きる生き方を止め、神様の言葉に生かされる生き方への転
換を求めているのです。どんなに能力があり、どんなに力があるように見えたとしても、所詮人間の能力や力に
は自ずと限界があります。そのような人間の力や能力に幻惑されないで、真に力あるものに頼って生きるべきな
のです。

創世記の天地創造の物語において、『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった』(創世記1:3)
の記述があります。これは神様の全知全能、神様の言葉の全能さを示しています。イエス様も同じ力を「神の
子」として持たれていました。「立て」と言われれば足の不自由な人が立ち上がり、「伸ばせ」と言われれば手の
不自由な人の手が治り、「開け」と言われれば目の不自由な人や耳の不自由な人の目や耳が開ける。「起き
よ」と言われれば死者が復活する。『神の口から出る一つ一つの言葉=神の言葉』にこそ、あらゆる力と能力
の源泉があるのです。その力によってこそ、人は人として真に生きることが出来るのです。

二番目の誘惑は、神殿の屋根の端から『飛び降りたらどうだ』というものです。『神の子なら』天使がたちま
ち降りて来てあなたを支えるだろう・・・と。これは、イエス様が答えられている通り、神様を試す誘惑です。子の
誘惑はイエス様の最後の十字架の場面でも繰り返されていました。イエス様が十字架にかけられて苦しんでお
られたとき、イエス様を侮辱して祭司長、律法学者、長老たちが言いました。『今すぐ十字架から降りるがいい
、そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしのは神の子だ」
といっていたのでだから』(マタイ27:42以下)

神殿から飛び降りろ。そうすれば助けてもらえるだろう、神の子なら・・・。確かにイエス様が「神の子」である
なら、また愛する子の困窮を父なる神様はほっておかないでしょう。誘惑者は、困窮の時に神様は必ず助ける
だろうという詭弁をろうして、神を試みることを促しました。これに対して、イエス様は『あなたの神である主を試し
てはならない』と答えられました。

私たちも確かに神様から試みられることはありますが、しかし、神様を試みることは最も不遜な行為です。
私たちが困窮する時、神様は本当に私たちを助けてくださるのかという疑いを起こす時には、誘惑者が私たち
のすぐそばにまで近寄っている時なのです。この誘惑に負けて、神様を試みるような不遜な者に堕落してはなり
ません。神様は私たちが困窮する時、そのそば近くに共におられて、必ず助け手を送って下さいます。神様は
試すべきお方ではなく、信頼すべきお方なのです。

最期の誘惑は、神様の子としての苦難の道を歩むべきか、それとも世の富、世の繁栄を手中に治め平穏
で優雅な道を歩むかの選択を迫るものです。世の富・繁栄は誰しもが手に入れたいと願うものですが、しかし、
誰でも手に入れることが出来るというものでもありません。イエス様の別のところで、『だれも二人の主人に仕える
ことはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』(マタイ6:24)と言っておられます。つまり、
だれも二人の主人には仕えられません。ですから、それらを手に入れようとする者は、その手に入れるもの(富・
繁栄)に魂を譲り渡さなければなりません。

私たちには神様に仕えるか、それ以外のものに仕えるかの二つに一つの道しかありません。十戒の第一の
戒めは『あなたは、わたしをおいてほかの神があってはならない』(出エジプト20:3)です。真実の神様以外のも
のを神とすることは、偶像礼拝にほかなりません。この第一の戒めは、私たちの信仰の出発点でもあり完成でも
あります。信仰は詰まるところ、私たちが「何を神としているのか」なのです。富・繁栄至上主義、能力・効率至
上主義、学歴・知識至上主義―これらは皆いとも簡単に「神」になり代わります。神様とは、ルターが言うよう
に「私たちが最も心を寄せるもの」が私たちにとって神様となるのです。神ならぬものを神とすることは、最も大き
な罪です。

イエス様はこの悪魔の誘惑に対して、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と答えられました。イ
エス様はこのお言葉の通り、自らが最後まで、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。イエス
様は自らが「神の子」であることをその驚くべき力「奇跡」を持って誇示されることもなく、神様を試みられるような
不遜な態度を示されることもなく、また父なる神以外のものに魂を委ねられることもありませんでした。そうでは
なくむしろ、ただひたすら罪人である私たち人間の救済のために父なる神様の御心に従われて、自らの命を十
字架の上でささげてくださったのです。そのイエス様の愛の犠牲によって私たちの深い罪が赦され、私たちは救わ
れる者となったのです。

イエス様が受けられた「もしあなたが、神の子なら」という荒れ野の誘惑は、イエス様の公生涯を通して、何
回も何回も悪魔によって繰り返し仕掛けられたでしょう。しかし、そのたびごとにイエス様はこれらの誘惑を斥け
られました。イエス様が「神の子」として受けられた誘惑は、また私たちの信仰生活においても、しばしば私たち
を堕落させるために仕掛けられてくる誘惑です。その時に私たちは心に刻んでおきましょう。人は神様の言葉に
よって生きること、神様を試みてはいけないこと、ただ主にのみ仕えるべきであることを・・・。

<祈り>

父なる神様、私たちが誘惑に遭うとき、誘惑に負けて罪を犯すことがないようにお守りください。また今、誘
惑に遭っている人がいましたなら、そこから逃れることができるようにお助けください。このお祈りをイエス様のみ名
によってお祈りいたします。アーメン


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