イエスの「山上の説教」は、誰に向かって話されているのでしょうか。
4:24 「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみ
に悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、
これらの人々をいやされた。 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の
向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
この後に、イエスは、群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そ
こで、イエスは口を開き、教えられた。」4:24-5:2
とあります。ですからこの山上の説教を語る対象は近くに寄って来た弟子たちであります。山に登って
来た群衆も幾人かは居たかもしれませんが、マタイは言及しておりません。
13節の「あなたがたは地の塩である。」と語った「あなたがた」は群衆ではなくて、弟子たちに向かって
語った言葉であります。仮に今、私の説教が富士市一般の人向けでするならば、違った話の進め方を
することになりますよね。
ここで「あなたがた」と語っているのは5:11-12節で触れている「ののしられ、迫害され、身に覚えのない
ないことであらゆる悪口を浴びせられている{あなたがた}である「あなたがた」を指しています。
そうした迫害の最中にあってイエスに従って身元に近づいてきた弟子たちに向かって口を開いたので
した。
13-14節で「あなたがたは地の塩である。世に光である」と言われました。「地の塩・世の光」とは従って
きた弟子たちの努力目標を述べたのではなく、弟子たちの今の姿を端的に示したのです。イエスに呼
び出されて神に従う弟子たちは、そのままで、「地の塩・世に光」なのだ!!と語ったのです。
「地の塩、世の光」ですから、弟子たちを世から切り離して別次元の世界へと移動させることではなく、
あくまでも、塩味と光とを世に与え、示す使命が与えられているのです。世の人からは塩は肝心なとこ
ろで大事にされて使われ、光である灯は世の人によって高台や燭台の上に置かれているではないか。
イエスの言葉に触発されて歩んでいる弟子の姿は、世の人の生きる希望と生きる力になっていると言
っているのです。
模範の姿にはいつも褒められて称賛されている姿だけではなくて、世の荒波に揉まれて苦しんでい
たり、失敗したり、転んだところも見られているのであります。そこのところで、私自身は、そしてあなた
は、どういう姿勢を見せているのでしょうか?!! そこの所が、要ではないでしょうか。
私は敗残兵のように立ち尽くしているところがあります。それでも今日の一日の歩みを創めなければ
ならないのです。
概述すれば、60年安保で惨敗(真面目に抗議を表明したりしても変えられなかったという虚無感に落
ちました。「筑豊の子供を守る会」の三年間の活動でも大きな時代に押し流されて、政治的経済的な改
革によって、子供たちには与り知らないところで、いちばんの被害者であった子供たちは被害者のまま
でありました。今の時代になっても、6人から7人の子どもに一人は家庭の貧困によって、充分な食事
がとれておりません。それですから、有志による「子ども食堂」が開設されています。それゆえに進学が
制限されて、将来の就職先が制限されることになるのであります。
私はこれまでに、6つの教会の主任牧師でありながら、自立力のある一種教会には出来ませんでした。
そして、今や、自分の人生は最終盤に差し掛かって来ております。
それでも、生きることを放棄せずに、この世の中で、今日の歩みを創めなければなりません。そういう
意味で敗残兵であっても、今日一日を誠実に、意味のある一日を、私にとっても、さらに出会う人にと
っても生きている愉しさ、尊さを感じる一日でありたいと願って止まないのであります。
ここで、加藤登紀子の「にんげんだもの」から 印象に残った歌詞の一部を紹介してみたいと思います
。「相田みつを」の言葉を繋げて、彼女が作曲した歌です。
なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき
いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が ふかくなる
弱音を吐いたって いいがな 人間だもの たまには涙をみせたって
いいがな
涙であらわれるたびに うれいが深くなる ※ (憂いの深いかをとは!? 個人的感想)
私共は、ジャンヌダルクやナポレオン、ルターなどのように、大勢の民衆の先頭に立って、引っ張って
進む立場には立ってはおりません。
なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに
くるしみにたえるとき
いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて
じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が
ふかくなる
多くの人はこんな姿は、避けたいし、模範にはしません。その人の心の奥底が見えていませんから。し
かしながら理解して共感する人が、一人・二人はいらっしゃるのです。その人は内心で、貴方を生きる
上での先達として勇気付けられている人なのです。その塩を踏みつける人もいるかも知りませんが、
大切に扱ってくれる人も必ずいるのです。大勢の群衆とは別に、イエスに従う弟子・信仰の同僚の方々
はあなたが「耐えながら」生きている姿から、自分自身も、理不尽なこの世を生きてゆくことに励ましを
受けているのです。
大きく世の中を改革することは出来なかったとしても、出会う一人を慈しんで、勇気づけることが大切で
す。そのためにこそ、我々一人一人はお互いを必要とする存在なのです。
「あなたがたは地の塩・世に光である」とは、イエスに従って生きて行こうとしている、その姿と歩みこそ
が、傍の人にとっては、地の塩・世に光であるのです。近親者との別れがあったことでしょう。心身を病
み、加齢によって出来ていたことが出来なくなることが増えたかもしれません。
そうした中でも、心を一途に向けているところがあります。認知力が弱まり、つじつまが合わなくなって
も、感情と心は主の庭で憩うことを願い慕っているのです。こうした方々に向かってイエスは「あなたが
たは地の塩・世に光である」と語られたのです。
主よ、私どもを憐れんで、導いてください。アーメン。
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