2023年  3月 12日  四旬節第3主日(紫)

      
聖書 :  出エジプト記             17章 1節~7節
            詩篇                95編
            ローマの信徒への手紙      5章 1節~11節
            ヨハネよる福音書          4章 5節~42節

      
説教 : 『 命の泉 』
                信徒のための説教手引き 信徒代読
      教団讃美歌 :  2、 333、 355、 515


<はじめに>
本日の日課、ヨハネ伝4章の6節 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。 正午ごろの
ことである。」

極めて簡素なくだりですが、ここから今日の救いの物語が紡ぎ出されます。

4章は、有名なイエスとサマリアの女の物語ですが、その発端は、4章の冒頭にあるとおり、逃れる経路として、
4節の、「サマリアを通らねばならなかった」
というところにあります。
 

<旅に疲れるイエス>

新約聖書には、ユダヤ人とサマリア人との間にある摩擦がところどころに見受けられます。
彼らには互いに憎む理由があり、歴史的背景もありました。
ユダヤ人から見れば彼らは、最も近い異邦人であり、最も憎悪と侮蔑を抱く隣人でした。
彼らはサマリア人と接触しないし、サマリアの地をも通ろうとしない。 それは宗教的なベールをかぶった人間の
憎悪が、そうさせないのであります。
しかし、そこに 「旅に疲れたイエス」 がお通りになられる。
このイエスの旅は、希望に燃えた旅ではなく、ファリサイ派のねたみと彼らとの紛争を避け、故郷のガリラヤに落
ち延びてゆく旅でした。
故郷ガリラヤに戻っても、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(44節)。
これを承知の上で、イエスは 「サマリアを通らねばならなかった」。
しかし、一見弱々しいイエスのお姿が、民族の壁を突破して、サマリアの地に 「メシア」 の到来が実現していま
す。
このサマリアのシカルという町へは、エルサレム近辺を深夜に出発して休みなく歩いたなら、ようやく 「正午」
到着するのだそうです。
それ故にイエスは 「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」 のであります。
そこへ 「サマリアの女が水を汲みに来た」(7節)。
イエスとサマリアの女との出会いが 「正午ころのことである」(6節)。
パレスチナでは日中に水を汲む習慣はないそうです。
普通水汲みに女たちが来るのは夕暮れ時でした。 人目をはばかり日中にあえてみずを汲むこの女に、イエス
「水を飲ませてください」 とおっしゃる。
この女性がイエスに出会う時、それは 「旅に疲れた」 ユダヤ人でありました。
私たちはイエスに要求することがしばしばあります。
願いがあり、望みがあり、要求がましく祈ることもあるかもしれない。
しかし、このサマリアの女は、旅に疲れ、へとへとになり井戸端に座り込むというお姿のイエスに出会うことを許さ
れました。
イエスとこのサマリアの女との出会いは、「水を飲ませてください」 というイエスの呼びかけにあります。

<片隅に、しかし確実に>
クアレックというウクライナ系カナダ人が描いた絵本を見たことがあります。
彼の両親はウクライナ難民としてカナダに移り住み、クアレック自身、子供のころから貧しい農家に生まれ育ち、
農作業のかたわら絵の勉強をして、ぬくもりのある絵画をたくさん描いています。
クアレックの絵に共通しているのは、どの作品にもマリアに抱かれた赤ん坊のイエスが描かれています。
それは平凡な人々の生活風景のなかに溶け込んでいますし、ホームレスの人たちが配給を待つ長蛇の列のな
かにもひっそりと描かれています。
またクアレックの育ったカナダの酷寒の地で労働者達が木を切る風景のなかにも描かれています。
その絵は難民の子として産まれ、貧農の生活を経験し、世界中を旅しながら生涯を終えたクアレックの人生の
風景画でもありました。
そこに、小さなイエス、しかしどこにでも描き落とされることなくイエスが描かれていることに感銘を受けました。
みる人によるとイエスに似つかわしくないところにイエスがおられることに驚く人もいます。
しかしクアレックが出会ったキリストはどこにでもおられるキリスト。
ひそやかに、しかし確実に励まし、導くキリストに出会った人の信仰が証しされていると受け止めました。
今日、サマリアの女に救い主は 「疲れた旅人」 としておいでになりました。
私たちは、いろんな人と出会い、関わりの中を生きています。 その生活風景のなかにイエスが思わぬ時と場所
においでになることを信じつつ、日々の生活を送りたいと思うのです。

<対話されるイエス>
もう一つの点を学びたいと思います。
イエスはその人の時と場所、そして固有の問題を避けて通らずに、具体的なやりとりの中で私たちを救いへと導
いてくださるということです。
最初、この女性は、イエスに 「わたしには夫はいません」 と嘘を言います。
その直前にもイエスに 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのです
か」
といぶかり、また皮肉まじりに 「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」 と言っています。
このように私たちはイエスが誰であるのかがわヵらないとき、ごまかしたり、疑ったり、軽くうけながすようなことをしま
す。
しかし、イエスはこの女性は非難されるかわりに、一つ一つお答えになりながら、彼女の問題の核心へと導いて
ゆきます。 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)
この女性の一番触れられたくないところをイエスは見つめ、捕らえ、接近される。
彼女にももちろんいくつかの選択肢があったでしょう。 先ほどと同様に、ごまかしたり、疑ったり、受け流すことも
できます。
しかし、彼女はその代わりに 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」 と素直にイエスのみ言葉を受け止
め、さらに対話を深め礼拝について問答を進めています。 それは魂の対話といっても良いだろうと思うのです。

人には、それぞれに固有の重荷や思い悩みがあります。
努力して何とかなる問題もあれば、人知れず思い悩み、悲しみ、打ちひしがれることしか出来ない欠点や負い
目もあります。
また理由もわからないまま苦しみを引き受けることもあります。
しかし、イエスは、そのために私たちに近づき、向き合ってくださいます。
それは欠点をあげつらい、責め、裁きをもたらすためではなく、「 『霊』 自らが、言葉に表せないうめきをもって
執り成してくださる」(ローマ8:26)ためです。
ここの霊とは、キリストご自身の霊と読んで頂いて結構です。
キリストご自身が疲れたものとなり、「正午」 にサマリアの地においでになって、サマリアの女にお声をかけてくださ
います。
それは 「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」 (ヨハネ3:16)です。
この主に信頼して、私たちの問題を打ち明け、執り成していただきたいと願わずにはいられません。

<おわりに>
この福音書は、最後に 「それは、あなたと話をしているこのわたしである」 というイエスご自身の宣言で終わって
います。
「命の水」、それは主ご自身なのだと。
「正午」 に」 水を汲むこの女性に、同じく旅に疲れ、水を乞う者となって救い主がおいでになる意味がここにあ
りました。
主は、わたしたちの必要としているもの、それはしばしば自分でも気付かない魂のかわきをも気付かせ、うるおし
、導いてくださいます。
礼拝は、この主に向かって、この主と共に、み言葉を通して、対話し、祈り、讃美し、主がわたしたちの間を執
り成してくださるときであります
この主から今週も遣われて参りたいと思います。

お祈りいたします。
天の神様。 これから始まる一週間、あなたのみ手のうちを歩ませてください。
あなたを見失い、苦しみ、悲しむことがあります。
どうぞ主よ、そのようなときにもあなたからのみ言葉をとおして、私たちを慰め、励まし、歩かせてください。
この日、この時を感謝して主イエス・キリストのみ名によって祈ります。  アーメン

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