2023年  3月 26日  四旬節第5主日(紫)

      
聖書 :  エゼキエル書           37章 1節~14節
            詩篇               130編
            ローマの信徒への手紙     8章 6~11節
            ヨハネよる福音書         11章 1節~45節

      
説教 : 『 イエスは涙を流された 』
                       光延博牧師 信徒代読
      教会讃美歌 :  84、 470、 386、 416

ご一緒に御言葉に聞いてまいりましょう。ラザロ、マルタ、マリアの姿に、イエ
ス様から愛され、イエス様を愛し信じて歩みを進める教会の姿があります。ラザロ
が死の支配に捕らえられている時に、イエス様が近くにおられることを知ったマル
タはイエス様を出迎えます。マリアは自分の家から出てお迎えする力が出ませんで
した。信仰があろうとも、愛する者の死に直面した時に動けなくなってしまう私た
ちの姿がマリアにより強く描かれています。

 

28節で「マルタはこう言ってから」とあります。マルタはイエス様に自分の信仰
を告白しました(1727節)。それをイエス様は喜び受け入れておられます。それ
から、マルタは家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼
びです」と耳打ちします。マリアだけに、そっと「イエス様があなたを呼んでいる
」ことをささやくのです。ある牧師はこう解説します。「ここに、キリスト者が悲
しむ者に出会った時に許されている、キリスト者に委ねられている言葉がある。こ
の言葉は高い所から声高に叫ばれる言葉ではない。本当に嘆き悲しむ者に静かに語
りかけられる、本当に傍らに立って『主がおられる、あなたを呼んでおられる、待
っておられる』と静かに語りかけることが許されている。ここに教会の宣教、また
交わりの原点がある。これがマルタがここでマリアに語りかけた言葉である。その
言葉がマリアを立ち上がらせ、救い主イエス様のもとに向かわせたのだ(29節)」
、そのように言います。29節のマリアが「立ち上がり」という原語は、イエス様の
「復活」の時に使われる語と同じもので、死の力に縛られていたところから(原初
からある)命に立ち上がった・復活したということが示されています。悲しみを抱
えながらです。マルタとマリアのように私たちには「兄弟姉妹の交わり」が恵みと
して与えられ、備えられているのです。

 

「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に
憤りを覚え、興奮して言われた」と続いています。イエス様は、何に対して「憤り
」を覚えておられるのでしょうか。神様を信じていながら涙を拭えない弱さや不信
仰に対してでしょうか。そうではありません。死の絶望に閉じ込めようとする死の
力に対して激しく憤られているのです。その力に対して御子は、そして御子と共に
おられる神様は、死の力に対し闘い抜かれて行くのです。

 

そして言われたのが「どこに葬ったのか」という言葉です。「彼はどこで死の力
に囚われているのか。今彼は死の支配の中で置き去りにされているのか」という意
味があると思います。その言葉に人々は「主よ、来てご覧ください」と応えます。
人々は、愛するラザロはもうどうすることもできない死の支配下にあるのをご覧く
ださい、と言うのです。

 

その時に「イエスは涙を流された」と記されています。ここに私たちは神の御子
の涙、父なる神様の涙を見ます。この物語にはたくさんの涙のことが書かれていま
す。マルタ、マリアの涙があります。ふたりの悲しみを想う周りの人々の涙があり
ます。そしてここで、神の御子が泣いておられる、神が泣いておられるということ
が記されます。

 

イエス様の涙はどういう涙なのでしょうか。聖書がこの35節の短い一文を他の節
と切り離すようにして、大切な一節としてここに、神の子であり、復活であり命で
ある方がこの私たちの現実・姿をご覧になった時に泣いておられるということを心
に覚えたいと思います。死というものを前に、神様の救いが愛する者たちに受け取
られなければ、愛する者たちは死の力によって絶望を感じるしかない、そのような
暗闇の中を歩んでゆくしか他にない、その愛する者たちの辛さを想い、イエス様は
涙を流しておられる、イエス様の涙はそういう涙だと思います。そして、どんなに
自分が現している神様の救いが人々に理解されないとしても、命を懸けてなんとし
てでも愛する者たちが神様の光を見ることができるようにしてゆく決意の想いをこ
の涙の中に新たにされていると思うのです。

 

「ラザロよ、死の力から、死の支配下から出て来い」と神様と共にイエス様は仰
いました。すると、ラザロは復活の命なる方によってよみがえらせられた・復活さ
せられたと聖書は語るのです。このしるしを通して、神様は最後の最後の事(終わ
りの事)として、私たちすべての者の復活を示してくださったのです。死が最後で
はない。死を打ち破る復活を最後の事としてわたしはあなたがたに与える、という
約束がここに示されています。

 

私たちが生きて行くということは死の暗黒の力が襲いかかって来る中を歩んでゆ
くことです。そこに救い主が来て、復活の命なる神様が私たち一人ひとりの名を呼
んでくださっていることを現してくださいました。

 

イエス様と神様は一つです(1720以下)。神様と私たち一人ひとりは一つです
。離れることのない、一つです。ここにイエス様が復活の命であるというご自覚の
根拠があります。ここに復活する力が秘められています。死の力はこの事実を見え
なくする力です。しかし、どんな時も神様と一つであるというのが本当の事です。
ここに死が破られている神様と私の原関係・その原事実があります。命の初めから
最後まで立たされている・生み出され生かされている本当の現実がどこにいても自
分の脚下にあります。死んでも死なない命、神様の命を受けている私たちには復活
から復活へ向かっている命があるのです。

 

この原事実が私たちの中で成るように・私たちが受け止めて・受け入れ信じて、
神様の光の中を歩んでゆけるように、「キリストはすべての者のどん底に己を置き
、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神様の私たちへの愛の御旨に従わ
れた」。神様が死の力に憤り、それと闘い、暗闇の力に負けそうな私たちの悲しみ
の涙を共に流して私たちの復活を祈り、支えておられます。その呼び声を聞きつつ
神様の兄弟姉妹として共に歩んでまいりたいと思います。
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