2023年  3月 5日  四旬節第2主日(紫)

      
聖書 :  創世記                12章 1節~4節
            詩篇                121編
            ローマの信徒への手紙      4章1節~5節、13節~17節
            ヨハネよる福音書          3章 1節~17節

      
説教 : 『 汝ら新に生るべし 』
                        木下海龍牧師
      教会讃美歌 :  132、 131、 285、 410


 昨年のクリスマスに、東京教会で洗礼を受けた朴元浩(パック・ウオンホ)氏の証「入信の契機と母
からの祝福」 東京教会月報「きずな」(2023年1月22日発行)から紹介します。

「京都府の田舎で生まれて高校まで育ちました。その後進学で岡山、就職で広島、転勤で東京となり、
気がつけば人生の半分以上をその東京で過ごしていることになっています。私とキリスト教の関係とい
えば、若い時に読書で触れた、井上ひさし、遠藤周作、そしてトルストイでした。理系に進みエンジニア
として生業を立てて来たので、前述の読書経験はありながらも、キリスト教はおろか、理屈を超える存
在に接するという宗教一切から縁遠い生き方をしてきました。ただ、昨年、私自身の環境を一新するよ
うな私事があり、仕事の方も体力面から以前のようにままならないようになってきて、私とその間を埋
めるものを、呻きのように欲するような心理に至りました。何か私の心を埋めるようなものはないかと
悩んだ時、ちょうど昔読んだ、一連のキリスト教をテーマにした書物を思い出し、教会の戸を叩いてみ
ようと思いいたりました。

牧師の松本先生、教会員の方に祝福を受けた洗礼式は本当に嬉しいことでした。もう一度生まれ
変わるという意味がわかったような感がします。
実は身内にも喜んでもらいたかったのですが、故
郷の母に教会に入ったということだけでも、やはり心が苦しいのかと心配させてしまう、また昨今、宗教
がらみの嫌なニュースが飛び交っていた最中でしたので、余計に言い難いことでした。しかし先日、帰
省した際、おもわず洗礼の話を吐露したところ、母は望外に喜んでくれました。
苦しい気持ちを教
会でなんとか救われようとする事は素晴らしい、また教会の方々は優しい人が多いからと。なぜそんな
ことを言い出すのかと思えば、いまは毎朝、般若心経を仏壇で唱えるその母が、独身時代、上京した
時代に、知人に誘われ、やはり毎週教会に行っていたというのです。全く知らない話でしたが。そんな
こんなで肉親にも祝福され、これからも心の安らぎを覚えるために神に近づける研鑽をしてゆく
所存です。
「きずな」より引用。

朴元浩さんが「もう一度生まれ変わるという意味がわかったような感がします。」この言葉が、本日
の聖書でイエスがニコデモに言われた言葉「『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の
国を見ることはできない。』」
を黙想する上で、一つの切口になるのではないかと思ったのです。朴元浩
氏は
    「自分はもう一度生まれ変わった」とは表現せずに、「もう一度生まれ変わるという意味がわか
ったような感がします。」 ここでは理系の人間が仕事の上でしている論理的な思惟ではなく、「生まれ
変わるという意味がわかった感がします。」「意味がわかる『感』がする」
自分の論理や思索の結
果ではなく、感の領域(魂の領域)、思考とは別に「痛い、冷たい、と直接に身体がそれを感じてとる
ように、神の国がどんなものであるのかを、わたしの存在(霊と魂と身体が一体である存在の私が感じ
取っている)と、ここで朴さんは言いているとみてよいでしょう。
    自分なりに蓄積されて持っている判断力を各自は保持しているのですが、説明の授受によって
は、言葉による言い換えの一つにはなるが、神の国体験、神の国を見るという体験とは異なるものな
のです。

自分は洗礼の意味を十分に且、明確には語れなく、分かっていないのにも関わらず、「喜ばれ、祝福
されている状態の中に巻き込まれている状態です。牧師から、教会員から、母親から来る喜び
と祝福に包まれて、感動の驚きの中で、神の国を見るのです。見るとは体得することであり、拓
かれた「非認知能力」によって神の国に招き入れられている事態を言い表した言葉なのです。


さらに、朴さんは「研鑽」と言っています。研鑽自体はとてもいいことです。研鑽なしにこの世で何ほどか
を体得できることはあり得ません。私的に言うならば、「研鑽」は自分が「生きる」上で必要な、食べる・
排泄・睡眠・運動などと同じレベルで無くてならないものだと、この年齢になった今でも「生きる」上で必
要な事項であって、排除出来ないと思っております。

ただしかし「神の国、神の領域、神の真理体験」がわかるためには、己一人の「研鑽」によっては達し
えません。おのれの研鑽の結果ではなく、研鑽によっては得られないと分かりつつも、その途上で、神
の方から、貴方に近づくのです。「見よ、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と。

イエスが近づいて語りかける、悔い改める(自分がよって立つ価値観を転回する)、そして叫ぶのです
。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。

文語訳 「その子の父ただちに叫びて言う『われ信ず、信仰なき我を助け給え』」マルコ9:24
自分には切実な願いがございます。されど、信仰がわかっておりません。助けてください。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」ヨハネ3:3

研鑽は、人間には必要事項です。イエスのこの言葉は、文章としては分かりますが、「新たに生まれな
ければ」には、ニコデモと同じ問い返しを私どもはしがちではないでしょうか。

「神の国を見る」とは、母の胎内から生まれ直すことでもなく、長い研鑽の結果に到達する領域でもあり
ません。

私は「禅冥想メディテーション」の手ほどきを受けて、40年以上になります。その結果、身についたこと
も多々ございました。私が高齢になった現在も、説教奉仕が出来るのも、その恩恵の一つではないか
と思っています。

けれども、このことと、「新たに生まれて、神の国を見る」こととは、また別の次元なのです。

それは研鑽修練の結果ではなく、いまだ至っていないにも関わらず、イエスの側からの近づきによる体
験として気づく領域なのでございます。そこでは、「いまだに神の国はわからず、信仰の周辺にいます。
信じます。イエスよ、信なき我を助けてください。」と叫ぶ自分が居ます。

予期しない時に、キリスト・イエスの愛の眼差しの中に招かれている一瞬に気付くのです。その一瞬が
とても大切です。まだこの地上に私は生活しているのですから・・・・。

最近は、自分の事を、多色モザイク・ステンドグラスのようだなあ!!と思うようになっています。

いろんな色のガラスモザイクが集合して全体としての私が構成されているということです。しかも、その
日の陽の当たり具合、私の心身の具合などによって、モザイク色の具合が微妙に変わります。

以前は真っ白に輝くガラスモザイク(新たに生まれて、神の国を見る)を理想にして、自分なりに、厳し
い冥想修練をしてまいり参りましたが、そこには到達できませんでした。

それでも、何かの拍子に、真っ白な一片のガラスモザイクが鮮やかに輝いて、「内外打成一片」(キリス
ト・イエス我が内に生く)の境地に成ったりもします。

私の書斎であり寝室でもある六畳には数々の書物が畳の上に無造作に置かれています。パソコンを
打っている前の棚には、ギリシャ語の新約聖書の他に日本語訳が10冊ほどあります。畳の上には、「
都市の中の観想」、「摂津幸彦俳句選集」、「大道寺将司句集二冊」、「空海コレクション1,2」「人類の
起源」、「自らも認知症になった専門医が伝えたい事」「治療文化論」、「知識人99人の死に方」「おじさ
んの酒場」「悟りと解脱」「すべては導かれている」「沢木興道聞き書き」「和の幻想―ネーミング辞典」「
老年の読書」「われわれはどこから来て、今どこにいるのか上下」などなどが散らばっています。たまり
かねた妻が書架に片付けたりすると、しばらくの間は私の脳内に混乱が起きてしまうようです。こうした
モザイクが総体として「わたし」を形成しているようなのです。その時によってそのガラスモザイクの色
の輝きが変わります。

ここで最も重要なモザイクは、人との深いかかわりから生まれて来たモザイクの数々であると言えまし
ょう。瞑想の内観法においては、普段は忘れていても、出来る限りに幼いころの自分の記憶に戻る作
業があります。その途中の記憶で、小学校入学してすぐの頃に麻疹になって、二週間ほど休まざるを
得ませんでした。クラスメイトが見舞に来たような気がしますが曖昧です。はっきりしているのは、「漫画
の本が欲しい」と母親に言ったのですが、すぐには応えてはもらえませんでしたが、何度目かの私の願
いにこたえて母親は私を負ぶって、近くの本屋さんへ行ってくれました。今にして思えば、大東亜戦争
開始直前で、駄菓子屋から菓子が無くなりはじめ、本屋から華やかな絵本はほとんど姿を消し始めて
いる頃でした。私が思い描いた楽しそうな漫画本は、その店では見つかりませんでした。迷っている自
分を母親からはせかしている感じも伝わってきておりました。それで、せっかく連れて来てくれたのだか
ら、何か一冊を手に入れなくては!!? そして、大判の漫画本一冊を買って貰ったのでした。私が初
めて自分で選んだ本を手にした時でありました。この時の母の背中の感触や温もり、思ったほどには
負ぶさるのも楽なものでもないなあとか、その後長く手元にあったその本の光景が、深い記憶の底に
今も存在していて、モザイクの一片として鮮やかに輝くことがあります。

私は洗礼を受けて67年、牧師なって56年になります。そうしますと、教会の中で愛され祈られて来た
年月が色濃く鮮やかなモザイク構造を構成して、彩った絵ガラス模様が私を構成しているのです。

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神
の国はあなたがたの中にあるからだ。」ルカ17:21


固有のモザクの構造のただ中で、貴方は神の国に招かれ、包まれていることに気付きなさい。と。

本日のような、25分前後の説教草稿を打っている時には、一本の筋道に収斂しながら作業が進みま
す。参考にした書物や、著名人の説教集を読んでも自分には、なんのインスピレーイションも受け取れ
ないまま時が過ぎてゆきます。そうした時には、モザイク模様全体を眺めて視野に納めながら、初めに
直観的に捉えた説教題の趣旨に沿ったモザイク構造を探すことになります。そうした作業の中で、一つ
の説教が出来上がってゆきます。正統的ではないでしょうが、最近はこんな感じになっております。

ここで言いたいことは、真っ白な聖化を目指したとしても、己の全体が輝くほどに真っ白にはならずに、
様々な色合いのモザイク模様の色ガラスの全体構図が形成されて、聖・俗が交じり合って私が構成さ
れている事、それらは日々に増殖変容しながら私を構成している。そうした構図の中で、その時々に与
えられ期待された役割を自分が構成しているモザイク模様構造の中から自分に向かって、放射されて
くるメッセージを感じ、受け取って、それを言語化してゆく作業をすすめるのが、自分の役割を果たす
のではないだろうか?!!  と。
   主よ、私どもを憐れんで、神の国を見る者にしてください。 アーメン。

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