私たちは礼拝の初めに 「主よ、あわれんでください。」 と唱えます。これが礼拝の初めにあるのには意味が
あります。1週間の生活で私たちの魂も体も疲れ切っています。考え方がいつのまにかこの世的常識というもの
にどっぷりと浸かってしまい、神のみこころを愛し慕うはつらつとした活気が失われてしまっています。 口をついて
出るのは、ぐちや非難の言葉ばかり。「主よ、あわれんでください。」 は、そのような状態の私たちが再び心を上
げて神を求め、神と一つになりたいとの願い・希望を表しています。弟子たちは、人間に、社会に、権力者に、
裏切られたのですから、その希望は同じ人間からは来ません。
天地万物の造り主、死者の中からよみがえった主なるイエス・キリストから来ます。復活とは、超越的な希
望です。それは、人間の常識を打ち破るものです。
「アブラハムは、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた。」 とあるように
、アブラハムは、無から有を生じさせる全能の神を信じて、すべてを委ねて、「主よ、あわれんでください。」 と祈
ったのではないでしょうか。混沌とした現実の只中に、しかし、主が明らかに語っておられる現実が同時に進行
しています。エマオ途上の物語における同伴する見知らぬ旅人を主と認識する瞬間が弟子たちに訪れます。
それが復活信仰です。主は生きておられる、との認識です。私たちはどのような瞬間にそのような体験をするの
でしょうか。 同じ現実を見ても、ある人には見え、他の人には見えないということがあります。同じ一人の人で
も、ある時には聞こえ、他の時には何も聞こえないということがあります。 主に希望を置く者には見え、聞こえ
ることが、そうではない人には何も伝わりません。赤ちゃんのかわいい笑顔は誰にも希望を与えるものかもしれま
せんが、深刻な場合にはそれをも、いとわしく思う場合も起こります。 人間の世界の出来事を主のみことばと
認識する、認識できる。そこに主が働いておられます。 それは感動の時です。 その瞬間を大切にしましょう。
そのために、沈黙の内に、主と語り合う祈り(観想)の習慣を古来、教会は熱心に勧めました。単なるこの
世の経験だけでなく、祈りにおいてそれを主の前で見るとき、さまざまな出来事が主の配剤として理解できるよ
うになります。忙しい現代人だからこそ、黙想の祈りを習慣化することが是非とも必要です。パソコン、インター
ネット、と、この世からの情報で溢れている時代だからこそ、以前にもまして沈黙の価値が増しています。主の
現臨を知って、さて、もう一年、踏み込んだ関わりが必要となってきます。家に招くということです。 家に招くと
親しくなります。 いろいろなことを話し合うことができます。そして、主の言葉を語ってくれる者を受け入れる信
頼が表されます。弟子たちはあの方を招き入れました。 希望を失った魂という家の中に。 しかし、希望を語
ってくれる方として是非ともと、招き入れました。
復活の主を招くとは、しかし本来的にはどのようなことでしょうか。その魂とは、私たちの心の一番奥深くにあ
って、神を呼び求める場です。そこに招くとき、ザアカイがイエスを招いたとき、うれしさのあまり、償いをしたい気
持ちが自然と沸き起こったように、一つの突破です。見違えるようにはっきりと、自分の信仰の確信に立つことが
できます。 要するに、人間にとって魂が一番大切だということで、そこに復活の主をお迎えするならば、「めちゃ
めちゃ」 うれしくなります。「主は生きておられる、私の内に。 もうひとりではない。」 と本心から言えるからです。
主は、そのような私たちの客となってくださり、私の魂の仲で主人となり、パンを裂いて祝福し、分かち合われま
す。主の祝福の分かち合いのパンが私たちに配られ、私たちはそれを次の人にまた渡してゆくのです。祝福の
連鎖、喜びの連鎖が、教会を興していく。 復活の主が来られて、教会が興される。 主にあって共に喜び合
う祝福の群れが誕生する。 それを新しい人類の誕生というのは大袈裟でしょうか。そうではない。 何故なら
、それがなければ、人類が滅びの危機に瀕しているからです。人類の歴史上、今こそ、ドラマチックなことば、神
のことばが必要とされている時はない、それほど、神を問題としない不信仰が広がっているといえるかもしれませ
ん。主がパンを裂き、弟子たちに配られるとき、弟子たちはもはや、あなたはどなたですかとは尋ねません。はっ
きりと、主であることを認識しているからです。聖餐を喜び頂くとき、私たちは主の現臨を祝います。 私たちの
思いをはるかに超えた超越的主が、私たちの只中に生きておられるということが、聖餐を受ける私たちの復活
信仰であります。 聖餐を受けるたびに、現前にリアルにそのことを体験することによって、私たちは天的糧を受
け霊的祝福に与ります。
エマオの弟子たちはエルサレムに帰って弟子たちに驚きの報告をしますが、意外にも、彼らはエルサレムの
弟子たちからも、別の報告を、しかし同じ主の復活の報告を聞くのでした。 そのとき、彼らは互いの報告によっ
て強められました。「主が共に」 という昂揚した気持ちを抱きつつ、私たちは再び、この世の現実に送り出され
ます。そこはまた、主が見えない、混沌とした現実です。 忍耐を必要としている現実です。しかし、それはもは
や、私だけ一人である以前の繰り返しではなく、いつも、見えない主が共にいてくださる日常です。 そこには主
を否定する多くの現実があると同時に、主を共に告白する群れもある。宣教の分かち合いはきっとそのような喜
びの交換となる。 パンの分かち合いから始まった教会は、宣教の分かち合いへと展開していく。それは、あの
5つのパンと2匹の魚との奇跡を思い起こさせます。
教会は古来、その奇跡を体験して来ました。復活の現実を物語る物語で福音書は満たされています。
出発点はすべて、復活体験でありました。宣教においては、キリストの現実があるところ、そこでは少ない数は
気にならない。ただ、そこに天来の感謝と讃美が溢れているかどうかを自らに問うべきです。数は神が増やしてく
ださる。 我々は、復活の主の現実に出会って、限りない感謝と讃美を主に捧げていくことだけです。人間の
世に、不思議にも、恵みによって、神が体を捧げて関わってくださったし、今も、関わってくださっており、やがて、
私たちが行くべき目標へと忍耐をもって進んでいけるように絶えず導いてくださっている。それによって、この世の
事柄が天的、神的事柄となり、それゆえ、讃美と感謝の歩みとなる。それが、キリストが復活を通して私たちに
もたらしてくださったものであり、礼拝の聖餐を通して日毎に私たちと共にあって、運んでくださるものです。そうす
ると、キリスト者は神に向かって心より 「ありがとう」 と言える者です。 それさえできていれば、人々は尋ねるで
しょう。あなたの元気の秘密、喜びの秘訣は何ですかと。 何か特別なことをしなければならないというのではな
い。日々の生活の中に喜びと感謝が天から来ていることを証しするように生きればよい。山上の説教で主は弟
子たちの生活を祝福して、「平和を作り出す人は幸いである。 そのひとは神の子と呼ばれるであろう。」 と言
われました。人間は皆、神の子となるようにこの世に生を受けました。あなた自身を造られた主なる神を信じる
ことによってしか、幸せはない。 これがキリスト教のメッセージです。あなたの心の真ん中に復活の主をわが主と
して受け入れるとき、ねたみや失望に終わらないで、希望の光が天からやって来ます。
お祈りいたします。
キリストを死者の中からよみがえらせ、私たちの主としてくださった全能の神さま。
主は生きておられる、と、心に叫び、その主と共にあって、いつも喜びと感謝をもって生きる賛美の生活を送
ることができますように私たちをあわれんでください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン
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