2023年  4月 30日  復活節第4主日(白)

      聖書 :  使徒言行録            2章 42節~47節
            詩篇               23編
            ペトロの手紙Ⅰ         2章 19節~25節
            ヨハネよる福音書        10章 1節~15節

      説教 : 『 良い羊飼い 』
                信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会美歌 :  402、 410、 95、 289

 本日の福音書の日課、ヨハネ10章1節~16節は、有名な 「よき羊飼い」 の箇所です。
そして、14節~15節、「私は良い羊飼いである。 私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。 それ
は、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。 私は羊のために命を捨てる。」
がその中心
です。
 「良い羊飼い」 は羊との関係で、強盗とも、雇人とも対比されています。
 強盗は羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来る。
 人間である羊は強い者に、守られていなければならない弱い存在であり、またしばしば、その弱い者を狙って
、「所有者である神から盗んで、殺し、滅ぼそうと」
近づく者、すなわち、悪魔がいる。
 人間をめぐって良き羊飼い、強き方が一方におられるが、他方には、また恐ろしき者である悪魔が人間を狙
っている。 だからこそ、まさに人間には、この羊のまことの所有者であり、強き方である神さまが絶対に必要な
のです。

 その神さまは、人間のために、まことの羊飼い、羊のために命さえ捨てられる方を遣わされました。
 悪魔である強盗は門以外の場所から、不正に乗り越え、また、密かにやってくる。 羊が声もきいたことのな
い、牧会者とは異質な支配者が、羊飼いの真似をしようとする。
 しかし、羊たちはその声に不安を感じて逃げ去る。 強盗と羊飼いは羊をめぐって互いに死力を尽くして戦う
。人間は誰の声を聞くのだろうか。 安らぎを与える方の声と、センセーショナルだけど不安を与える者の声はは
っきりと違う。だから、聞き分けなければならない、と今日のテキストは私たちに忠告しています。

 
イエズス会の創始者、イグナチオ・ロヨラは、ある一冊の宣教の武器となったパンフレットを書いた。 それは
霊操』
という名の書で、祈りを深める方法について書かれている。
 その中で、彼は、ある霊がどこから来たかを見分けよ、と言っている。 つまり、それが自分の内から出て来た
ものか、悪霊から来たものか、善霊(聖霊)から来たものかを識別せよ、と言う。

 
何故そのようなことを言うのかというと、キリスト者は聖霊に導かれる確信を得るとき、自信をもってその道を歩
むことができるようになるからです。
 霊の識別について、新約聖書にはたとえば、ヨハネの第一の手紙4章1節で、「愛する者たち、どの霊も信じ
るのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。」
と言われています。
 これは人間を惑わす霊が世に横行していることを知っているからです。 キリスト者は聖霊に導かれる民として
の自覚をもっているべきであるということは、この聖句が書かれたときから、今日に至るまで、キリスト者のしるしで
あります。

 何が聖霊の導きであり、何が単に自分自身から出ているものであるか、あるいは悪霊の仕業であるかを識別
することは、聖霊に身を委ねて歩もうとする者にとって、死活的識別の問題ではないでしょうか。
 また、聖霊の声と悪霊の声は全く違います。 たとえ、悪魔が天使の装いをしたとしても、その声ははっきりと
違う、という確信がヨハネにはあるので、このような御言葉を語り出すことができたのでしょう。

 
イグナチオの識別に従えば、さらに、自分の内から出てくるものともはっきりと違うということが出来るでしょう。
 私たちは聖霊をどのように体験するのでしょうか。 聖霊によって私たちの心に注がれた霊は、私たちに天来
の喜び、無私の精神、讃美の心を与えてくれます。

 
それらは私自身の内から出る霊が為す業とは次元の違うことを私たちははっきりと認識できます。 その違い
はあまりにも違うので、歴然と識別できなければおかしくないでしょうか。

もしこれが区別できないほどあいまいなものなら、どうしてそのような霊に導かれることをあえて求めるでしょうか。
パウロもガラテヤ書5章22節で次のように言っています。 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平
和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」 神が下さる賜物である聖霊が働く時、そのようなことが私
たちの現実となります。

 
逆に言えば、そのような事が起こったなら、それは私の内から出ているのではなく、神の賜物として上から与え
られていることをしっかりと認め、喜び讃美して、その導きに従うべきであり、感謝も何もしないようであっては、そ
れは神のものを横取りするような忘恩(ぼうおん)行為ではないでしょうか。

 そうなると、次の導きが続かない。 導きから導きへと、主の御声である聖霊の声に従って歩むのがキリスト者
の道です。

 霊の働きの結果、人間に明らかな変化が起こります。 聖霊が内から神への愛を起こさせるとき、人間の魂
は喜び踊ります。 そのような喜びは人間のからは出てこない種類のもので、それは外から御言葉を通して私た
ちの魂に達し、それによって恵みに満たされる喜びが与えられるのです。

 小さな子供だったサムエルが、神からの声を初めて聞いた時、それが何であったか判然としなかったのに、二
度目に聞いたことを先生のエリに報告して相談したところ、エリはサムエルに、「今度声がしたら、『しもべは聞い
ております。 主よ、お話しください。』
と答えなさい。」 と言って、エリはいわゆる 「霊的指導」 をします。 そ
のようにして、サムエルは霊的な知識を得、成長していきます。

 
そのような声を神さまの恵みによって時に応じて聞いている私たちは、それが神から来ていることを認める時、
信仰者としての成人となる時がやってきたといえます。

 
なぜなら、それからは、神の導き・神の声が何かを、自分で知ることができ、自分の霊やいわんや悪霊に惑わ
され、妨げられることなく、神の導きのままに道を行くことが出来、喜びの人生が更に豊かにされるからです。

 
そのような声が更に私たちを導く時、私たちはこの世が与える喜びと、神さまがくださる平和についての違いを
知り、ついにはローマ書12章2節に記載された、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。 むしろ、心を新
たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことである
かをわきまえるようになりなさい。」
とパウロが語るように、神の御心をもっと知ろうと先に進むことができる者とな
り、ひたすら、神に喜ばれることを求め、完全に向かってわきまえ知る者となってゆくのです。

 キリスト者の霊的進歩の道は神さまの導きを知り、まっすぐにその道を確信をもって大胆に進むことにあり、決
して霊的に不確かなまま霊的堂々巡りのままに留まるべきではありません。

今日の福音書のテキストは、主イエスが 「良い羊飼い」 であると宣言します。

主イエスご自身が聖霊の御声として導いてくださる道はどこまでも喜びの道であります。

その喜びのうちには、他者の重荷を負う苦しみも含まれています。

他者の重荷とは、ボンフェッファーが 『交わりの生活』 の中で奉仕について述べている六つの奉仕の第五番
目に宣べている奉仕ですが、それは他者の持っている人間的弱さや罪故に、私たちがこうむるしんどさを引き
受けることだと言われています。

 どうしてそんな理不尽なことがあるのか、これでも教会なのかという人間の罪故の事柄にしばしば私たちは遭
遇します。

本日の第三の日課でも、主なるキリストこそ、そのような理不尽な苦しみを、魂を救う牧者として、しっかりと
耐え忍ばれたことが述べられています。

そのキリストとの霊の交わりのうちに入れられた私たちは、キリストと共に、この苦しみを受け止める時、それもま
た、聖霊によって喜びの業へと変えられることができます。

使徒言行録6章には、教会の中に二つのグループがあって、一方が差別されていたことが描かれています。 
その間にあって労苦するのが選ばれた7人の執事でした。

彼らは人々の罪故の労苦を積極的に引き受け、主の託された羊を守る牧会に当たりました。

教会は牧師だけの仕事ではなく、主に喜ばれることを求める、主を愛する人々のなす業であります。
 お祈りいたします。

私たちの父なる神さま。

あなたが呼びかけておられる御声に従うことは何と麗しく,私たちの力となり慰めとなることでしょうか。

その喜びの御声を聞いたなら、喜び勇んですぐにその後ろに従って行くことができるように、私たちの霊の耳を
清めてください。

そうしてあなたとの交わりが日々確かなものとされますように助けてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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