2023年  4月 9日  主の復活(白)

      
聖書 :  使徒言行録            10章 34節~43節
            詩篇               118編1節~2節、14節~24節
            コロサイの信徒への手紙    3章 1~4節
            マタイよる福音書         28章 1節~10節

      
説教 : 『 イエスの復活を告げよ 』
                       木下海龍牧師
      教会讃美歌 :  89、 107、 262、 453

イースターおめでとうございます!!!

私の中には、イエスの復活は聖書と信条集で宣べられた内容を信じています。他方、理性的には十
分には分かっていない、と言うのが正直なところです。本日の福音書は、その私に「イエスの復活を告
げよ」と私に向かって語ってくるのです。信じてはいるが、完全には分かってはいない私は主の復活を
どのように告げ知らせるのでしょうか。
 

とにかく、今日の福音書を読んでまいりましょう。

マルコ福音書が初代クリスチャンに知れ渡った後に、マタイ福音書は書かれたのですが、マルことは
違った視点で復活を描いていることに気付きます。

マルコとの並行記事(16:1-5)と比較してみましょう。

    マルコ:女たちは「香料を塗るため」に墓へ   マタイ:女たちは「墓を見るために
    マルコ:墓をふさいでいた大きな石が女たちの到着以前にどけられていたので、彼女たち
は墓に入り、墓の中で「白い長い衣を着た若者」に出会う。

マタイ:女たちの目の前で「主の天使が天から下り、石をころがし、その上に座った」としるし
ています。

    マタイは、マルコが全く触れない「見張りの者」の存在を述べ、「番兵たちは、恐ろしさ
のあまり震えあがり、死人のようになった。」
と記しています。

マタイではイエスに香油を塗って遺体を保存しようとの意図は全く姿を消し、関心は墓をめぐって起こ
る出来事を見る事に向けられています。27:61 「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに
残り、墓の方を向いて座っていた。」

マタイでは、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗み出すのではないかと祭司長たちが墓の番人を置いたことに言及しています。

「祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、 27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたと
き、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。

 27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の
中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」

 27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」

 27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

 

マルコでは遺体の置かれた場所の確認を重視するが、マタイでは墓で起こる新たな出来事の予感
をほのめかすことに重点を置いています。墓での出来事とはイエスの復活であるのですが、この復活
をマタイは特別な視点からとらえているのです。マタイの視点を理解するための鍵は、「見張りの者」
の登場であります。27:62-66によると、ユダヤ人指導者はピラトに願って、墓石に封印をし、見張りの
者を墓に立てています。マタイが見張りの者を登場させたのは、彼らは手立てを尽くしてイエスを墓に
封じ込めようとする努力を強調するためでありました。

 しかしイエスの復活を目指す神は、人の努力にもかかわらず、イエスを墓から解放なさったのでした
。マタイにとって、復活は死からの解放であり、それを成し遂げる神の確かさのしるしであるのです。こ
のような視点から復活を見るマタイにとって、人は死に瀕する時にも神は信頼に足る解放者であるの
です。

 イエスを墓に閉じ込めて置く人間の企てが、いかようになされようとも、神のご意志はイエスを復活さ
せることでありました。人間の側のいかような企てをも粉砕してイエスを復活へと導かれたのです。
 

 さらに聖書は、蘇ったイエスとの出会いがどのようにして起こるのかを語っているのです。

二人の婦人が墓を見に行って、大きな地震に遭遇して、主の天使が天から降って、封印の墓の石をわ
きへ転がし、その上に座ったのを目撃しまた。番兵は恐ろしさのあまり死人のようになった。

天使か婦人たちに語った。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、  あの方は、ここには
おられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を
見なさい。

 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そし
て、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに
伝えました。」


婦人たちは天使を目撃して、恐れつつも、天使の言葉を信じたのです。婦人たちはまだ復活のイエス
に出会ってはいませんが、天使の言葉を信じて、恐れながらも大いに喜び、弟子たちに知らせるため
に走って行ったのです。

(私たちも重大なことを聞き知ったときには、関係者に伝えるために伝えるべく急ぐのです。婦人であっ
ても、また子供・老人であっても、ついつい走ってゆくのです。)

主の復活を伝え聞いて、走っている最中で、主に出会うのです。「おはよう」と主イエスが声をかけ
て来られたのです。

ゴルゴだの刑場では、祭司長たち、律法学者、長老たちは、イエスを見上げながら「今すぐ十字架
から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」と言った。

それは信仰ではないでしょう。もしもイエス様が目の前で十字架から超常現象によって降りてくるのを
見て信じると言うのは、信仰という心と人格でもって行う応答にはなりえません。それは、単に目の前
の現象を見て確認しただけの事なのです。心・魂・愛による受容ではありません。神様が人との交わり
を願っている内実は信頼・信仰による双方の愛の関係性が生まれ、形成される事なのです。婦人たち
は復活のイエスにはまだ会ってはいなかったのですが、天使の言葉を信じ、その指示に従って走った
のでした。天使ではなくて、人間である牧師や司祭が語る言葉を信じて従ってみる者にイエスは現れる
のが真実なのです。これは一つの道筋です。その他の道もあるかもしれませんが、今の私にはそれ以
外の道について、語る見識は持ち合わせていません。

 ここでは天使もイエスも同じことを言っています。「弟子たちに、主の復活を告げよ。」 復活のイ
エスは「ガリラヤで、わたしに会うことになる。」 と。

 婦人たちは復活について十分な説明ができなかったのですが、告げられた言葉を受け留めて
、その伝言を伝達する途上で、イエスの側から婦人たちの現前に現れたのでした。

 このことは今日の牧師と信徒にとっても同じことだと思います。半分信じて、半分解らない状態
なのです。復活のすべてが解って受け入れたとは、言い難いのです。復活は我々の実在を超え
ている事柄であるからです。エゴイズムと智慧不足の人間にとって「神」のすべてが理解できて
いないのと同じです。

 言付かった伝言を手の中に握って、伝えようとしているのです。しかしながら、本日の聖書では
伝言すべき相手は「弟子たちであり、わたしの兄弟たち」と明記されています。

しかしながら、今日の世界では伝言を手渡すべき人については、牧師と信徒には、一面におい
て隠されていると言っていいのです。伝言すべき相手は、すべての人であり、且つまた神に選ば
れた人に限られている、という枠組みがあるのです。具体的な相手の決定権は今日の牧師と信
徒の側にはありません。それですから、神様からの伝言を手にして、しばしば立往生している感
じがしています

 

ここでなぜか、工藤直子の詩「あいたくて」が思い出されるのですが・・・。

 きょうの聖書を読む者にとっては「主の復活を告げよ」という明確な託があります。

相手には、充分に説明できるほどには解ってはいないとしても、伝えようとする行動を一心にす
る姿から、言葉の説明を超えて、「死がその人のすべての最後ではないのだ。」と伝わる生きざ
ま、死にざまによって、復活の次元を身近な知る人に伝わるのではないか、と思っています。

それを私から受け止めてくれた人が、伝えるべき人であったと言えましょう。

さらに、キリスト教会の長い霊性の歴史の中では、主のあわれみと本人の長い修練とによって
、復活の世界・神の世界を開いて見せてくれた人の存在を大事にしたいと思っています。

 主よ、わたしどもを憐れんで、復活の世界を信じ、復活の主にまみえる道へと導きたまえ。ア
ーメン。

 

 「あいたくて」                 工藤直子

          あいたくて

         だれかに あいたくて

         なにかに あいたくて

         生まれてきた──

         そんな気がするのだけれど

 

         それが だれなのか なになのか

         あえるのは いつなのか──

         おつかいの とちゅうで

         迷ってしまった子どもみたい

         とほうに くれている

 

         それでも 手のなかに

         みえないことづけを

         にぎりしめているような気がするから

         それを手わたさなくちゃ

         だから

 

         あいたくて

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