2023年  5月 14日  復活節第6主日(白)

      聖書 :  使徒言行録            17章 22節~31節
            詩篇               66編 8節~20節
            ペトロの手紙Ⅰ         3章 13節~22節
            ヨハネよる福音書        14章 15節~21節

      説教 : 『 慰めの弁護者 』
              信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会美歌 :  96、 318、 171、 333

本日の福音書の箇所において、別の弁護者、真理の愛と呼ばれる、いわゆる聖霊の話が少し触れられてい
ます。私たちは、霊というとすぐに、幽霊、亡霊、心霊と言った具合に、オカルトの世界を想像してしまい、そう
言う先入観があるやもしれません。

しかし、例えば聖霊とは神様の息と言われます。また、イエス様こそ主です、と告白する信仰を私たちに与え
るものだとも言われます。ボーッとした存在ではなく、具体的に、その働きが何であるかが聖書では明らかにされ
ています。

また、それはちょうど風のようなものとも、聖書は教えています。

風は見ることもつかむこともできない。しかし、木が揺れたり、葉っぱが揺らぐのを見れば、風が吹いたことが分
かる。同じようにもし、私たちが自分一人で生きていくものではないこと、自分の意思でこの世に生まれてきたの
ではなく、命を与えられいること、生かされていること、支えられていること、そして、神に愛されていること、これら
を知って感謝に溢れ、生きることの豊かさを味わっているなら、そこに、神の息、聖霊が働いていることを知ること
ができ、これが聖霊を知る道なのです。

ところが、イエス様ははっきりおっしゃいました。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れること
が出来ない。

神の息を、この世の者は感じることが出来ない。私たちは、この神の息を見ようともしなければ、感じようともし
ないというのです。せっかく永遠に一緒にいてくれるこの存在を私たちは見ることも知ることもない。

今日の箇所、少し繰り返して読んでみますと「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内に
いる」、「わたしは、あなたがたをみなしごにしておかない。」「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが
わたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」こんなふうに言葉が続きます。

どれも、神の霊と、イエス様と、そして父とが、私たちといつも共にいて、何とかして私たちを保護する、しっかり
と包囲網を組んで、私たちをみなしごにしないで、孤独にしないで、共にいてくれると言うことが強調されている
ように思えます。

ところが残念ながら、私たちはこれを見ない。知らない。そしておそらく、そのことを認めない、というのです。何
故か。これが今日の大きなポイントです

日本基督教団の元牧師で加藤常昭先生という方の説教集を読んでおりましたら、先生がかつて子どものこ
ろ教会学校に行っておられたとき、しばしば教師たちが、「うなじこわき」という言葉を使っていたい、と書いておら
れます。

今、私たちが用いている聖書で「かたくな」と訳されている言葉は、「うなじこわき」と訳されていたそうです。新
改訳聖書などを見ますと、今でも、この言葉を用いています。言うまでもなく、うなじとは首筋のことです。首筋
がこわい、こわいというのは硬いと言うことです。赤飯のことをおこわと言うことがあります。それと同じです。不信
仰な人の姿を、聖書は、うなじこわき民、首筋が硬い人と呼ぶのです。どういう事か?

これは、神様が、その救いの御手を差し伸べてくださる、さあ、疲れたものよ、おいで、休むがいい、と言われる
。おまえの命を、この私にあずけるがいい、と言われる。その時に、素直に、はい、と首筋を曲げて、うなずくこと
が出来ない姿を言うのです。この状態が、聖書では、不信仰と言われるのです。

それが、今の言葉で言えば、強情とか、かたくなと表現されているわけです。

わたしがあなたといつも一緒に歩いているよ、と言われても、耳を貸さず、わたしは一人で生きているんだ、わ
たしは他の人、弱い人と違って、犯罪者たちと違って間違ったこともしない、助けもいらない、もう色んな事はわ
かっているんだ、と叫ぶ姿、これが、うなじがこわい姿、すなわちかたくななのです。

世はこの霊を、見ようとも知ろうともしないので、受け入れることが出来ない。これは神の救いの御手に対する
、私たちの強情さを言い表しているところです。

私たちはこのかたくなな自分を知るところから始めないといけないのです。

私たちが、イエスの言葉を受け入れる、イエスの言葉を尊び、畏れ敬うならば、私たちは確かに、日々、神の
息が、私たちを導き、助け、一緒にいてくださることを、感じることが出来るのです。毎日、どんなときでも、主の
慰めを思い起こすことが出来るのです。

私たちは、生身の体で生きているものですから、くじけることもあれば、落ち込むこともある。しかし思い起こす
ことが出来る。あなたがたをみなしごにはしない、あなたがたと永遠に一緒にいるんだよ、と言うみ言葉を思い起
こすことが出来る。完全に絶望することがない。それどころか、この世に見えるものによらなくても、確かな、消え
ることのない希望の中に生きていることが出来る。

そして、安心して、生きていくことを知るのです。たとえ、どんな不安が襲うときも、たとえ命が尽きるときにも、
何も心配はいらない。主が、わたしと永遠に一緒にいてくださる。わたしを守って下さる。全て、この方にお任せ
すれば良い。このような平安を頂くことが出来ます。

この平安だけが、真実に、永遠に消えない平安だということを知るのです。うなじが少しずつ和らげられていく
のです。

今日の箇所は、先週に続いて、イエス様の告別説教と言われるところであります。

イエス様が弟子たちと離れて、天の父の元に帰る、というその間際に語られた、弟子たちへの励ましの言葉で
した。その時に際して、イエス様は言われた。私は、生きて、あなたのそばにいる。あなたの足下にいて、支える
。あなたの前に立って進む。あなたの後ろから、しっかりと支える。

主がおられる。わたしとおられる。そのことを知るとき、生きることの喜びを知ることになります。満たされることを
知ります。

主の御手だけが、かたくなな心を和らげるのです。

わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

このみ言葉をかみしめたいと思います。

命を与えられた主が、何としてでも、私たちを救おうと御手を差し伸べておられます。主の御手に、この身を
委ねて、共に生きていきましょう。

<祈り>

父なる神様、あなたは、救いの御手を、御独り子イエス・キリストを通して、私たちに届けてくださいました。ま
た、このイエス様を仰ぎ、あなたの愛に思いを向けるために、聖霊を遣わしてくださいました。主よ、私たちのか
たくなな心を打ち砕いて、あなたの救いへの招きを従順に従わせてください。この小さき祈り、イエス様のみ名に
よって祈ります。アーメン


                                        戻る