2023年  5月 21日  主の昇天(白)

      聖書 :  使徒言行録            1章 1節~11節
            詩篇               47編
            エフェソの信徒への手紙   1章 15節~23節
            ルカよる福音書         24章 44節~53節

      説教 : 『 祝福しながら 』
                     光延博牧師 信徒代読
      教団讃美歌 :  158、 159、 204、 337

主イエス・キリストは、神様を映し出されます。見えないけれども、絶えず私たちの中で、
間で、お働きくださっている神様とは、詩編23編にも表されている、慈しみ深いお方であるこ
とが啓示されました。福音書記者たちが描き出す主について読むことを通して神様がわかるよ
うにされました。

 

神様がこの地上でなさられたことはすべて祝福でございました。徹底的に私たちを祝福し、
祈り、寄り添い、慰め励ます神様が確かに私たちを今も過去も未来も永遠にお働きになられま
す。神様は飼い葉おけで生まれ、十字架に死なれ、人生の最も深いところまで、極限まで共に
おられる、インマヌエルなる神様です。

 

それが救いである、最も深いところにはその神様の救いが支え、その上に喜びも悲しみも憂
いも安心も、人生の一切に光が届いていることを、神様はキリストのからだなる教会を通して
語りかけられています。これからも祝福し、語り続けられます。私たちが思い描く救いとは、
この世の価値観を持って思い描く救いなのかもしれません。私光延もそう考えてしまうことが
多くあります。しかし、私の思い通りにならなくとも、あなたには絶対に奪い去られない救い
が確かにあるのだ、と聖書を通して神様はお語りくださるのです。この事が私の救いとして、
私を支えてくださるのです。

 

この事は、ルター先生が教えてくださるように、私の救いは私の外に確保されている、とい
う内容にもつながると私は思っています。イエス様の時代や福音書執筆の時のように、当時の
支配者や民衆が、自分たちの願望を叶えてくれるのが救い主だと考えて主を排除し殺害したよ
うに、私が自分の思い描いた像によって、主を消したとしても、神様の御想いを受け取り続け
られた主は、そして主の宣べ伝えられた福音は、この世の一切の事柄によっても消されず、厳
然と私たち、私たち一人ひとりを愛し、支え、祈り続けられます。その主は復活させられたの
です。

 

イエス様は、旧約の民が悟っていた命の創造者であり主体であられる神様を、またその事を
旧約聖書が初めから証ししていたのに、いつしかその真実を忘れ去り、形だけの信仰になって
しまっていた、言い換えると人間が作った宗教になってしまっていた、それをイエス様が初め
の命の真実に戻されたのでした。この命のご真実がイエス様を生かしめ、一人ひとりすべての
命を生かしめている、今あり、過去にあり、未来にある、ここにある命の事実を示してくださ
ったのです。それが、本当の事だと、後に多くの人が気づき、悟りました。多くの人が存在の
奥底から救いを感じたのです。

 

生まれる前から、命の誕生の瞬間から、生れ出て来てずっとこの救いの中に自分たちは存在
している、とこの世の価値観によってではなく、天からの喜びに不思議にも満たされて来たの
です。また、慈しみの神様が私たちの罪を赦しておられることをイエス様によって私たちは知
らされました。私たちが神を捨てて自己中心に歩んでいることによる破綻した関係が私たちの
側にはありました。私たちが神様を捨てたのですが、神様は私たちを捨てられてはおられない
、と主によって知ったのです。愛として絶えずお働きくださっている神様のもとには愛しかな
かったと悟りました。私たちは、神様の愛によって創造され、守られ、神様の御許に帰らされ
るということを聞いて、自分からは出て来ない、上からの救いに包まれているすべての命を知
ったのです。

 

イエス様はおっしゃっています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高
いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と。天からの救いの意味を、
今感じることができなくとも、神様が一人ひとりに特別に与えられる、神様が定められた時(
すべて時がある)が必ず来る。慈しみなる神様が与えてくださる。だから、今もまた意味があ
る。祈りつつ、辛くても、待ち望んで歩んでゆく。じっと待望しつつ今日できることをできる
だけさせていただく。今私たちをお支え下さり導いていてくださる神様に信を置き過ごしてゆ
きたいと思います。

 

イエス様は「祝福しながら」御許に帰ってゆかれました。今も祝福し続けておられると聖書
は言っています。「祝福する」の原語は「エウロゲオー」で、「エウ」は「良い」、「ロゲオ
ー」は「言う」です。ですので、祝福し続けておられる主と神様とは、私たちに「良いと言っ
ておられる」ということです。「良いと言い続けられる」神様です。ルター先生が言われるよ
うに「究極的には義人、同時に罪びと」である私たちです。私たちは罪びとであるにもかかわ
らず、神様によって義とされています。これを最後の(究極の)審判、と言います。神様の決
定です。

 

この世のすべての事には神様の祝福が及んでいます。極限の深みまで、その光は当たってい
ます。人間の営みすべては慈しみのまなざしの注がれた一つひとつです。「人は哀しいもので
すね、かよわいものですね、かわいいものですね、人生って、不思議な、嬉しいものですね」
(「愛燦燦」歌:美空ひばり)という歌に私は神様のまなざしの中に在る人間、人生を感じま
す。その中に在って、私たちは憩い、それを分かち合い、喜びも悲しみも一緒にし、イエス様
と共に与ってまいりたいと思います。

 

イエス様は神の「国」(守り・愛のご支配)はここにある、と言って旅を続けられました。
こんな状況なのにどこに救いの神の国があるというのか、どこが「良い」というのか、と私た
ちは想うことが多いのですけれども、そのように感じる中にあっても、神様からのお語りかけ
、イエス様の御言葉に耳を傾ける者へとさせていただきたいと願います。

 

イエス様の祝福を受け続けていることに気づいたお弟子さんたちは「イエスを伏し拝んだ後
、大喜びで」帰って行きます。約束された場所で、祈りつつ神様からのお力を待ち望みます。
彼らは「神をほめたたえていた」のです。「ほめたたえる」は「エウロゲオー」です。祝福を
受けた身は祝福が溢れ祝福は返っていく。神様のお働きは私たちを包み込み神様に帰って行き
ます。その神様の守りの内にある私たちを覚えてこの新しい週を歩んでまいりましょう。祝福
を祈っております。

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