2023年  5月 7日  復活節第5主日(白)

      聖書 :  使徒言行録            7章 55節~60節
            詩篇               31編2節~6節、16節~17節
            ペトロの手紙Ⅰ         2章 2節~10節
            ヨハネよる福音書        14章 1節~14節

      説教 : 『 貴方には居場所があります 』
                         木下海龍牧師
      教団美歌 :  164、 337、 154、 242

 アーズランド先生のヘルパーであった時代に、一緒に富士川のJR線路沿いの道路に面したお宅を
時々お訪ねして家庭集会を持っておりました。ある夕暮れにお訪ねした時でしたが、そのご家庭では
騒動が起こっておりました。私にとってそれは忘れられないで出来事を目の当たりにした体験でしたの
で、その後ズーット私の記憶に残り続けました。

そのご家庭には、私の記憶では、年を経たお婆さんを頭に、小学生のお子さんが二人ほどいる40代
初めの夫婦のご家庭であったのではなかったかと思います。お婆さんの年老いた姿から推察すると一
番下の息子夫婦と一緒に生活しているのではないかとも思われました。

「此処が、おばあちゃんの家なんですよ!!」と必死にその家の主婦は語りかけておりました。それで
もおばあちゃんは「家に帰る、家に帰る」と呟いては、立ち上がったり、玄関口に出て行こうとなさって
おられました。 このおばあちゃんがその後どのように納まったかは見極めずに我々は帰宅しましたが。

 66年ほど前の事ですので、今ほどには老人の認知症についての情報や知見についてはほとんど身
近なニュースとして広がっていませんでした。それもあって、私にはこのお婆さんの心理的な状況は何
も分かっておりませんでした。

 ただ私が感じ取れたのは、「この家に嫁いで来られて、その後、夫に先立たれて、今や、自分が最年
長であるにも関わらず、夕暮れになるとこの人は自分の家に帰らなくては、そこには父と母が自分を待
っているのだから!! 自分が生まれ育ち、娘時代を過ごした、父と母が居る家が自分の帰るべき家
なのだから!と一途に思いこんでいる様子がけなげで、哀れでもありました。 老いた母親がこんな言
葉を言い出すと、これまで世話をしてこられた息子夫婦の気持ちも辛かっただろうと推察されました。

 

 失敗談①私が一番上の男の孫が小学校4年生頃に「爺は、まもなく死ぬ時期が来るから、今のうち
にいろいろなことを話したり、何か一緒に体験したいと思っているのだよ。」と話しかけた時に、何か聞
こえなかったような素振りをして、目線はほかに泳いでいるふうに見えました。私の話をよく聞いてくれ
ていた子供でしたのに、その振る舞いが腑に落ちなかった記憶が残っていました。

②最近、双子の孫娘が制服を披露しに来訪しました。その折に、私が和菓子を買ってきて抹茶を立て
、彼女らにも茶筅の扱いを体験させたりしました。茶器類がしまい込んでいた茶箪笥の扉を開いた時
に、「あれ!いろいろとたくさんあるのね。」と言ったので、家内が双子に応えるように言ったのです。「
お爺ちゃんが死んだら、あなたたちが貰ったらいいわヨ」と、言ってしましました。すると孫娘の一人は、
半べそになって、「そんな死ぬ話はしないで!!お願いだから!! わたしは貰わないから!!」と言
い返されました。そして孫たちが帰って、我々が二人になった折に「自分たちは、真面目に考えて、孫
たちにとっても大事なこと柄なのだからと思って、この機会に、話しておこうと、思って話しても、孫たち
は、悲しくなるのでそんな会話には耐えられないのだね。これからは、こうした話はしないことにしましょ
う。喜んで迎え入れ、お茶をしたり、ひたすら歓迎して、楽しい時を持つようにしましょう。」という結論に
なりました。

 一方で、現在は25歳になった先の孫は、北海道から帰京してくると、必ず、我が家に寄ってくれて、
様々な我が家の歴史や、よもやま話を話し合い、聞きあって帰ってゆくのです。この5月4日にも就職
活動の合間を縫って、意図的に立ち寄ってくれました。今や成人した彼の意識の中では我々との別れ
が遠くはない、と理性的知的に理解した上での態度が見受けられています。

 

 本日の聖書で、イエスが弟子たちに向かって、語りかけられたのは、イエスが直前に「 子たちよ、い
ましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所
にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じこ
とを言っておく。」
13:33

「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
13:36

 このようにイエスから別れの言葉を告げられたので、弟子たちはひどく動揺して、心が乱れていると
主イエスには見て取れたからなのです。

だから、イエスは仰ったのです。心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。
と。

 主イエス・キリストは、この地上から去って行きます。十字架の死によって去って行きます。

弟子たちから去るだけではなくて、この世から去って行きます。その意味では主イエスは、私たちと同
じ歴史的な枠組み、すなわち時間と空間に制約された存在としての「地上を歩む神」そして、私たち
の歴史を共有されました。時間と空間に制約された神が、主イエスにおいて現わされているのです。こ
のことが聖書の教えなのです。しかも、その主イエスは、私たちの間から去って行きます。

 しかし、イエスにおいて示された神は、「過ってあり、今もあり、未来もある存在」して生き続けてお
られるのです。「ナザレのイエスは死んだが、神は死なない」ということなのです。この出来事から後
は、見えない存在に目を注ぐ信仰の世界が、残された者、弟子たちや信仰者の仲では、重要な課題に
なるのであります。こうした目に見えない事柄の領域を信ずる真理内容は使徒パウロや使徒ヨハネに
受け継がれていったのであります。主イエスは弟子たちと別れます。しかし、主イエス・キリストにおい
て示された神が、信仰者から失われることはないのです。このことを「心を騒がせるな。神を信じなさ
い。そして、わたしを信じなさい。」
が語っている内容なのでございます。

(主イエスが自分たちから去って行かれると聞いた弟子たちに向かって、心を騒がせるな。過去・現在・未来にわたって存在なさる神を
信じなさい。神を信じるとは:過去、現在、未来にわたって変わらずに存在して、我々を愛して止むことのない神の命を信じて生きる事な
のです。地上を歩まれたイエスと同じように、弟子たち・信仰者もこの地上を歩みながら地上の命は閉じられる時が来るのだけれども、
主イエスは地上の命を閉じた後に復活されました。そして、さらに、弟子たちをも、神のもとで共に生きるために、そこへ招き、ともに住む
場を主イエスが用意してくださった世界があるのであります。)

「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」3「わたしがいる所」わたしは
ある」
という所、さらに言えば「かってあり、いまもあり、未来もある」存在のもとに、主イエスがわた
したちを招く、と、わたしたちに宣べているのです。そのように約束をしてくださっているみ言葉です。こ
れは、見えないものに目を注ぐ信仰の本質を示していると言えるのです。
 

 こんにちの、量子科学の分野の詳細な研究発表によって宗教と科学の接近が言われております。そ
のことによって「科学」と「宗教」が手を携える時代が訪れることになって来ております。

 きょうの聖書個所に符合すると思われる今日の現代科学の最先端、量子物理学の世界で論じられ
ているゼロ・ポイント・フィールド仮説」があります。われわれの肉体の終焉を迎えると我々の意識は「
ゼロ・ポイント・フィールド」に瞬時に移動します。そのフィールド内においては、「宇宙のすべての出来
事の情報」や「過去、現在、みらいの出来事の情報」に繋がることができると言われております。

量子物理学的にみるならば、我々が日常的に感じる「物質」というものは、エネルギーの振動であり、
波動に過ぎないのです。すべての出来事は、その本質は、量子物理学的にみるならば、すべて、「波
動エネルギー」なのであります。「ゼロ・ポイント・フィールド」に記録された情報は、永遠に残り続けるの
です。21世紀の科学が検証すべきは「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」であると言われております。

 

わたしが今回、田坂広志の著書を読み始めて感じたのは、「わたしのいる所に、あなたがたもいる
ことになる」
というイエスの言葉からでした。イエスが十字架で死なれ、復活後に、昇天してゆかれた
世界、そこは2000年後の今の物理量子科学で説明するとすれば「ゼロ・ポイント・フィールド」では
ないのか。という思いに至ったからです。

 今後、わたしの知見がもっと深く明確に物理量子科学について理解できて、捉えられるにいたりまし
たら、宗教と科学の接近についてお話しが、時々紹介できれば嬉しいことだと思っております。

主よ、わたしどもを憐れんで、宗教と科学の深い結びつきについて、
   学ぶ機会をお与えくださいますように。アーメン。

参考書籍 田坂広志著「人類の未来を語る」「死は存在しない—―最先端量子科学が示す新たな仮説」

                                          戻る