2023年  6月 18日  聖霊降臨後第3主日

      聖書 :  出エジプト記           19章 2節~節a
            詩篇               100編
            ローマの信徒への手紙    5章 1節~8節
            マタイよる福音書        9章35節~10章23節

      説教 : 『 証しの生活 』
                信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  289、 410、 397、 290

イエス様は多くの町や村を巡り歩いて、「神の国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやし」
ておられました。ところが、多くの群衆は「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれて」いました、と記
載されています。この時代、貧富の差は激しく多くの民衆の生活は極度の貧しさに喘いでいました。また不正
や不義もまかり通っていたでしょう。宗教的な戒律も厳しく、多くの人は規則ずくめの閉塞的な生活にうんざり
していたことと思います。

また別の人々は重い病に苦しみ、障害をもっている人々は差別され、重い皮膚病になった人々は隔離さ
れ、また罪人、徴税人、罪の女と呼ばれた人々は軽蔑の目にさらされ、身の置きどころのない生活をしていま
した。イエス様はこのような重荷を負って「弱り果て、打ちひしがれて」いる人々を「深く憐れまれた」のです。その
「憐れみ」こそが、宣教(伝道)の原点です。

イエス様の時代から二千年以上が経った今日はどうでしょうか?状況としてはちっとも変っていないように
思えます。世界的な規模で見ますと、南北問題として富める国と貧しい国が歴然としてあります。富める国の
人々は貧しい国の人々を搾取していないでしょうか。自分達の豊かさを保持するために、貧しい国の人々を
抑圧してはいなでしょうか。必ずしも経済的に豊かになることが、人間が豊かになることではありません。

現在、まさにウクライナとロシアとの戦争が起こってますし、コロナの問題もあります。20019月、アメリカ
で同時多発テロ事件が起こりました。テロはいかなる国・いかなる団体のものであっても決して許されるものでは
ありません。テロは最も卑劣な行為です。どのような美辞麗句を並べようとも、どのような大義名分があったとし
ても、テロ行為は絶対に許されるものではありません。

その他、LBGTQ等の差別問題もあり、不正義はまかり通っています。病で苦しむ人も絶えません。医療
の進歩は目を見張るものがありますが、それにもおのずと限界があるでしょう。どんなに医療が発達しても、死な
ない人はいません。

私たち人間は様々なことで苦しみ、悩み、ますます人の心()は傷つけられています。このような現代社
会の中で本当に必要なのは、「福音」です。「福音」は二千年前の古びた衣のように役にたたないものではあり
ません。このような時代だからこそ、ますます「福音」を宣べ伝える必要があるのではないでしょうか。

イエス様は「収穫は多いが、働き人は少ない」と言われました。今、私たちのルーテル教会は「教職不足」
と言われています。他教団でも同じような問題を抱えています。これまでルーテル教会は、「一教会一牧師制
度」を基本として教会形成をなしてきました。教会があれば、そこには必ず牧師がおりました。しかし、今日で
は教会に対して牧師数が不足しています。一人の牧師が二つ・三つの教会の責任を負う状態は、決して珍
しいことではありません。

多くの献身者(牧師になる人)が輩出することが求められています。「収穫のために働き手を送って下さる
ように、収穫の主に願いなさい」とイエス様も言われました。多くの献身者が輩出されるように祈っていきましょう。

しかし、それだけでは問題は解決しません。どんなに多くの牧師を輩出しても、一人一人の信徒が「証し」
をしなければ宣教は進展しません。牧師の一番大切な仕事は、「証しする信徒」を生み出すことです。なぜな
ら、信徒こそ、悩み・苦しみ・喘ぎ、悲しんでいる人々の最も側近くにいるからです。その証しをする信徒を牧師
は手助けするのです。

イエス様の言われる「働き手」とは、専門職である牧師のことだけを言っておられるのではありません。教会
には様々な奉仕の場があります。信徒はそれぞれの賜物を捧げて神様にお仕えしていきます。しかし、自分で
証しするのは苦手だと言われる方があるかもしれません。そのような方は、アンデレやフィリポになればよいのです
。ヨハネ福音書1章で、アンデレが自分の兄弟シモン(ペトロ)に会って、「わたしはメシアに出会った」と証ししま
した。「そして、シモンをイエス様のところに連れて行った」のです。フィリポもナタニエルに出会った時、「来て、見
なさい」と言いました。自分であれこれ説明できなくても、証しができないわけではありません。誰でも、「わたし
は救い主に出会いました」「来て、見てください」と言えるのではないでしょうか。

証しとは、何もキリスト教の真理(福音)を上手に話すことができるということだけではありません。「一緒に
教会に行きませんか」「わたしはイエス様によって救われました」-自分で説明するのではなく、教会にお誘いす
ることが大切です。教会には多くの救われた人々がいます。それら救われた人々の信仰を見て、人々は救わ
れていくのです。

しかし、宣教は目に見えるような形で進展しないかもしれません。伝道すれはすぐに教会が大きくなると考
えるのはどうでしょうか。たしかに伝道しなければ宣教は進展しません。しかし、宣教したからといってすぐに目に
見えるような成果があると思いこむのも間違いです。宣教は、教会を大きくすることが目的ではありません。教
会が大きくなろうが小さくなろうが、先に救われた者として「福音」を宣べ伝える・証しをする、そのこと自体に意
味があるのです。

イエス様は弟子たちを派遣するに当たって、「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾
けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の塵を払い落しなさい」(1014)と言われまし
た。すべての人が福音に耳を傾けるわけではありません。むしろ、福音を宣べ伝えることを快く思わず、それを妨
害し、時には迫害や弾圧されることもあるのです。

ですから、信徒の数を増やすという現実的な効果のために伝道するのではなく-勿論、信徒が増えること
は望ましいのですが、それ自体を目的とするのではなく-増えようが増えまいがそういうことに一喜一憂するので
はなく、キリスト者の使命として伝道する・証しし続けることが大事なのです。そして、その結果の責任は、神様
ご自身が取ってくださるのです。私たちがなすべきこと(伝道・証し)をなし、それでも受け入れられなかった場合
には、「足の塵を払い落して」その人の家から、その町から出て行けばよいのです。すべてのことを神様はご存じ
です。伝道の結果はすべて神様に委ねて、私たちは自分の今日なすべきことをなしましょう。

<祈り>

父なる神様。悲しみ、苦しみ、悩み、傷ついている人々が、私たちの周りに溢れています。あなたの救い
の喜びを一人でも多くの人々に伝えることができるように、私たちを用いてください。アーメン


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