2023年  6月 25日  聖霊降臨後第4主日

      聖書 :  エレミヤ書            20章 7節~13節
            詩篇               69編 8節~19節
            ローマの信徒への手紙    6章 1節b~11節
            マタイよる福音書        10章 24節~11節

      説教 : 『 世間を恐れるな 』
                        木下海龍牧師
      教団讃美歌 :  355、 243、 453、 525

「世間を恐れるな」とは:
自分の考えや信念に従って行動し、他人の目を気にせずに生きることを促すメッセージです。
他人の評価や社会の常識に縛られず、自分自身の道を進むことが大切だという意味です。
社会的な圧力や他人の意見に怯えることなく、自分の意志や信念に忠実に行動するよう助言しています。
自己主張や固有の価値観を持ち、自分らしく生きることの重要性を示唆しています。
この表現は、他人からの期待や評価に縛られずに、自分の道を選び、自分自身を表現することの大切さを強調しています。
自由な思考や行動を促し、自己実現や個性の発揮を助けるメッセージとして受け取ることができます。
ただし、他人を無視したり、他人の感情やルールを無視することではなく、自分の行動が他人に迷惑をかけたり、
法律や倫理に反することにならないように注意が必要です。

 本日の聖書の文脈では「人を恐れるな」とは、 イエスを信じて行動していると言う理由によって、除
け者にしたり、捕縛したり、追放したり、ある刑罰を課する人‥を恐れるな・・・。と言っているのです。
 われわれが住んでいる今の時代では、江戸時代のキリシタン禁令はもはや破棄されて存在しません。
 大東亜戦争時代に、外国の宗教だと言うだけで、牧師やキリスト信者が迫害投獄されるようなことは
ありません。けれども江戸と明治以降の数々の戦争の中で受けた差別や恐怖感が社会の中には、無
意識の中に残っていて、みんなと違う宗教であるキリスト教を信じている。それを隠そうとする傾向があ
るようです。それをカムイングアウトするには決心が要します。娘が洗礼を受けたら嫁に行きづらくなる
のではないか、嫁の貰い手が難しくなる。と感じている人々は少なくなかったのではないでしょうか。
 江戸時代から第二次大戦が終わるまでの3百年ほどの間の集団意識の中に、耶蘇教に関わると怖
い目に合うと言う、思い込みが、今もって、世間にはあるのかもしれません。
 (半田教会時代、新見眼科での聞いた体験、知多半島一帯に一時、ギリシャ正教会が盛んに布教さ
れていた話)
 原則的に、「人々を恐れてはならない」理由としては、28節の「体を殺しても、魂を殺すことので
きない者どもを恐れるな。
」とのイエスの言葉が挙げられます。「天の父は、‥あなたがたの髪の
毛までも一本残らず数えられている。だから恐れるな。
」「体が殺されるのは悪夢から、次の刹那
には目覚めるようなものなのだ。あなたがたの体と意識と霊は神が支配している領域へと一瞬にして
移り行くのだから。
 この世においては、あなたの命は束の間のものなのだから、すべての事を、永遠の次元から善し悪
を考えなさい。そうすれば、この世の人々を愛して殺されても、恐れることはないのだ。と。
 現在では、信教の自由は日本国憲法によって保障されていますし、生活様式の個別化、個人的な傾
向が認められて保護されております。それでも、一般的傾向としては、みんなと同じでないと、世間の
目を気にする風潮というか、気にする傾向が人々の中にあるように思います。
 実例的には地方の再生化に協力する志から、某地方に住み込んだ若夫婦が、その地のボスからは
散々な目にあったと言う話も少なくありません。都会から地方へと安易に移住して困惑している家族の
話しも見聞きします。世間と言いますと、全体の皆が、と思いがちなのですが、詳細に確かめてみると
、周りのボス的な数人を気にして、それをなんとなく世間として捉えている場合が多々あります。
 なんとなく、自分の生活や生き方に圧力がかかって、制約されたり、異なった意見が言えなくなったり
する場合もありましょう。 しかしながら、こうした世間の圧力を感じたりしても、実際には、彼らによって
日々の食物が与えられているわけではありません。自分たち自身が働いた金銭でもって生活をしてい
るのです。世間の人がその生活費を出してくれているわけではありません。それですから、まずは、食
べて生きてゆく上で、 原則的には、世間を恐れるな、と、励まさるのです。
 健康上やむなく、生活保護を受けて治療にあたっている患者さんもおられます。世間からは「勉強し
ろ、自分で働いて稼げ」という暗黙の抑圧を感じる人もいるかもしれませんが、 これは憲法で保障さ
れている生存権に基づいて、健康に生きる事が保障されている制度なのであります。

< 余談 >
 616日、十字式両国施療院で施療を受けた帰途、新宿駅西口に近い店で、遅い昼食に雲吞を食
べていました。その店に、流されていた歌がありました。「人を愛して、愛された、のだけれど、わたしに
は幸せがわからない」。構えなくても、自然に聞けて、歌いやすい歌だと思いながら何気なく聞いていま
した。この作詞家は、みんなが願っている言葉と聞きたい言葉、聞きやすい言葉を取り入れているなあ
。と思いながら聞いておりました。
 「人を愛する。愛される。幸せ」、という言葉を歌詞の中に繰り返し使っていたからです。
 人を愛する、人から愛される・・・は体験的にわかる感性的な言葉ですね。
 「幸せはわからない」というフレーズは、ちょっと違ったジャンルに入るのではないか??
 だから、幸せを説明しようとすると、「幸せはわからない」となってしまったのかな!?
 「幸せ」を実感する前に、概念化したままの「幸せ」が言葉として、出てきた場合などは、その「幸せ」
は何を指して言うのかは不明のままです。だから「幸せはわからない」と書いてしまったのかな? と、
思ったりしました。
 歌詞の内容からは「愛するとは、或る一人が、ある特定の人」を愛するものなのだなあ!! と思っ
たりしました。
 万人を愛する事と特定の一人を愛する事とは区別がありながら一枚の硬貨に似ています。
 10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の
前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと
言う。」イエスの愛はすべての人に注がれていますが、具体的には、すべての人の一人を愛してくださ
ったことによって現実に両者の間に愛がありのままに立ち現れてくるのです。
 私たちはイエス様一人をまず愛して・信頼します。そのイエス様からこの世に遣わされて、すべての
人の一人を愛して行こうと思うのです。

「イエス様は貴方を愛されておられます」そのことを皆様方に伝えるのが私の大きな役割です。

礼拝と説教がその主たる手立てございます。

富士市周辺を視野の中に入れていますが、実際は、目の前におられる富士教会会員の方々が中心
になってお居ります。

 イエス様は天上に帰られる時に弟子たちに言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわた
しの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを
すべて守るように教えなさい。」と。

 ですからすべての民はイエス様と教会の愛の対象であります。その愛はどのようにして、一人の人に
届くのでしょうか。それは、いろいろな条件と制約の中で、わたしには謎として残されています。

 イエス様の存在とその愛の言葉がロゴスとして人の耳と知性と人格に向えて、誠実に真剣に語り告
げなさいと命じられています。

それは、川に投げたパンが、いつの日にか、確実な実りとして見る事になるでしょう。

すべての人に向けて投げたパンは、はるか川下で心身が疲れ果てて、飢えている人が、そこに流れて
くるパンに気付き、今の自分に必要であると、手に取り、飢えをしのいで、豊かな命を得て、生きる喜び
の歌を神様に捧げるに至るでしょう。

自分に必要だと、気づいて、手にして、そしゃくしたその時が、主のみ言葉が成就した時となるのであり
ましょう。

  主よ、私どもを憐れんでください。パンを川に投げるような無駄な時間が続く中でも、

        永遠の時の中で、必要とする人の手元に み言葉が届きますように。

               私どもに忍耐して励む心と力をお与えください。
   

アーメン。

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