「種をまく人 」とは ChatGPTからの応え
「種まく人」というフレーズは、日本語の表現であり、比喩的な意味を持ちます。直訳すると、「seeds
planting person」または「seed-sowing person」となりますが、一般的な意味としては「未来を創る人」
や「新しいことを始める人」を指すことが多いです。
この表現は、新しいアイデアやプロジェクトを始める人、新しいチャレンジや行動を起こす人を
称えるために使われることがあります。彼らが新たな種をまくことで、成長や変化をもたらす、希
望や可能性を拡げる象徴として表現されます。
この表現は、社会的な意味合いを持ち、積極的な行動を奨励する際に使用されることが多いで
す。
種まく人は、未知の未来に向けて進む勇気や創造性を持つ人々を指しています。
本日の聖書の個所を読んだ時には、わたしは、説教者としては、「種をまく人」とは、イエスの言葉を
文字通り忠実に語り伝える人に限定した考えに立っていましたが、AIのChatGPTから、もっと広がりの
あるフレーズへと私を誘ってくれました。
「そうだ!!もっと広い視野から見た『種をまく人』について考えた上で、聴く人々に、イエスの福音を語
る方が、この譬えを語ったイエスの意図に近いのではないか。三位一体の神を信じ・愛して、隣人を自
分自身のように愛する、そして、具体的に日々を生きる中で何かを選択して、実践するものなのだ」と
視野が広がりました。そうしたことが、現状を生きているすべての人々に福音を知り・受容してもらうた
めの一歩になるのではないだろうかと。
たぶん、昨年の初めころから、ツイッターやSNS上では、神宮外苑周辺の再開発に伴って、 周辺
の1000本以上の樹木が伐採さることが問題になって、反対の署名活動が始まっています。
ツイタ―で粘り強く「神宮外苑伐採を始めないで」と訴えている夫人ロッシェル・カップさんが居
られます。伐採反対の署名が7月11日現在で21万7千名を突破しています。私も署名しました。
請け負った住友不動産側は現在のところ、8月からの伐採計画の変更はないと表明しています。伐
採した樹木の数だけの苗木を植えると弁明しておりますが、そこから苗木の本数の事だけではなく、緑
の量の総体についての議論に発展しています。樹木の生長には30年から50年は掛かると反論が出
て居ります。
東京都内に残された稀少な緑の区域ですので、再開発を行うにしても、極力、樹木を伐採すること
のない範囲内での工事であるべきだと私も強く思っております。
この伐採反対の運動を率先して行っている方は一人の婦人ですが、それに共感して論陣を張っておら
れる岩竹美加子さん『フィンランドはなぜ「世界一幸せな国」になったのか』の著者でもある方です
が、「種をまく人」の運動を人が暮らしやすい街とは何であるのか。思索と論評を発信しながら、生き
て行く人への愛と情熱を抱いて、実践している良い例であると言えます。
「賀川豊彦を巡る人々」⓶「種をまく人」1963.9.1発行 一麦舎発行の小冊子を見ますと、中学
校のクリスチャンの先生が一人のやんちゃな生徒を育ててゆくお話ですが、その生徒と先生の一生涯
が語られています。この小冊子を読みながら、人を育ててゆくとは一生涯の仕事なのだと改めて実感
しました。
最初は、著者の田中芳三は、中学校の先生とやんちゃ中学生は仮名で登場させていたのですが、6
版あたりから、実名を明かすようにとの声が高まって、私が持っている9版には二人の写真と実名が添
えられています。一枚の七人の集合写真には賀川豊彦を真ん中にして、過っては、やんちゃ少
年の実名・三田村俊一教授(日本聖書神学校教務主任・日本基督教団教育委員)。さらに、クリ
スチャン先生の実名・柴田俊太郎38歳(55歳で帰天)と三田村俊一24歳の二人の1936年の写
真も紹介されています。
1970年1月生まれの私の息子が牧師按手を受けたのが2,000年3月、満30歳になった年でした。
彼は大学院を終えて、神学校に入学する直前の3月に結婚し、最終学年の神学生・教会実習研修を
札幌教会(古戝克成牧師)で実施していた年に、彼の長男が東京で生まれたのでした。その時は、彼
の伴侶は立教の大学院生でもあり、日本聖書神学校の最終学年であったのでは?? 彼女の母親と
彼女の実家の支援なしには難しいかった事です。私の妻と娘二人にも声がかかって、出来る限りのこ
とはしたはずです。
わたしの場合を振り返ってみても、たくさんの人のお世話になっていました。父親が70歳の時に私は
神学校に入学したのでした。老いてゆく両親に何の支援も援助もできない親不孝者でした。
わたしの今の心境は、自分が牧師になるためには、教会内外の方々に様々に、「たくさん、お
世話になったなあ」との思いが強くあります。それで、傍目から見て、自分の状態が迷惑にならない
のであれば、聖霊様の助けを受けながら、出来る限り、必要とされている「教会」で、説教と聖餐
執行の奉仕の務めを果たしてゆきたいと思っております。
< 本日の聖書からの気づき >
①
1節の「家を出て」は、12章46節~50節で記述されているその「家から出て」と繋がってい
ます。イエスは、自分を連れ戻しに来た母や兄弟の縛りから出て、「家」のことは、既に大人になってい
る兄弟姉妹に任せてイエス自ら、み言葉の種まきを始めたのでした。
②
「ある種は道端に落ちた」は、ここの「道」は刈り入れ後の農閑期に村人が行き来するうち
にできた通路であり、それはやがて耕される農地に変わるのであります。パレスチナの種蒔きは、まず
種を蒔きその後で耕すのが普通であるので、この表現になるのです。それだから、農閑期に茨が生え
た農地であっても、やがて耕すのです。種が茨の間に落ちても気にしないで種蒔きをするのです。石だ
らけのところに種が落ちることがあってもあとから耕せば種は土に落ちて芽を出すからです。
③
農夫は、ある種は無駄になるかも知れないと理解しているのです。それでも、農地のすべて
に種を蒔き、実りを待っているのです。
④
そのように種蒔きに出たイエスも、希望と期待を抱いて、実りを待つのです。神は実り
が難しいと思える所からも、見事な実りをもたらすことが出来るお方であられます。
祈りましょう。
主よ、相応しくない土地でありました私にも、種を蒔いてくださって、ありがとうございます。
神様の秘儀が分かって、信ずる者になったことは望外の喜びです。
実りを主に捧げてまいります。
アーメン。
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