「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人
は言います(マタイ13:30)。「毒麦」と言われている植物が何であるかはよく分かりません。しかし、「敵」が蒔いたのであれば
、良いものであるはずはありません。それが少しずつ芽を出してきた時点で、抜き集めることを奴隷たちは主人に進言します。し
かし、主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と応えます。刈り入れの機会である時を待つようにと主人は言います。
しかし、私たちはそのような一瞬の時をどうやって見つけるのか分からないものです。刈り入れの時はいずれはやってきます。その
時は、早すぎず、遅すぎず、ちょうど良い時のことです。その時が来たと判断するのは、あくまで主人です。主人が良しと判断した
時が、ちょうど良い時です。
このちょうど良い時を見極めるのが主人であるとすれば、ここで僕(しもべ)が主人に進言をするのは、立場をわきまえない僭
越なことです。僕は、時を待つしかありません。主人が良しと判断する時が来ると信頼して待っていれば良い、それが僕の在り方
です。
イエス様は、たとえにおいて、天の国のありさまを語っていますが、そこでは時を待つことが示されています。時を待つためには、何
が必要なのでしょうか。その時を判断する唯一のお方がおられ、その主人以外の者には判断できないのですから、判断するお方
に委ねることが必要です。このことをわきまえないと、勇み足となり、すべてを破壊してしまうことになるでしょう。天の国は、ふさわ
しい者が判断する時を受け入れることの中にある、そうイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。
そうであれば、私たち人間の中にも、時を判断する力を与えられている人も居るでしょうが、それが誰なのかは分かりません。それ
が分かるのは、時がやって来たときです。私たちは、時を判断できないことをまず受け入れる必要があります。そして時を待ちま
す。待つ時には、いつまで待つのかという期限を設けることができません。それゆえに、あたかも永遠に待つかのように思えるので
すが、それでも待ちます。それが天の国に入る姿勢です。
私たちが天の国に入るのは、時に従ってです。神が設定したふさわしい時、「今だ」という時(ある一瞬の時)に従ってです。天
の国の準備が整った時が、私たちの準備も整った時です。しかし判断をするのは神です。そして、ふさわしい時は必ず来ます。こ
れがイエス様がたとえで語っていることです。
ふさわしい時を待つあいだ、私たちは「まだか。まだか。」と焦る思いが起こり、「もう、来ないのではないか」という諦めの気持ちも
起こります。それでもなお待つしかないのです。もしかしたら、そのうちに私たちは待っていることすら忘れてしまうかもしれません。し
かし私たちが忘れてしまっても、時は必ず来ます。その時というのは、予兆なく、突然来ますので、忘れていたならば時の到来に
慌てるかもしれません。それでも時は待ってくれません。それゆえに、ふさわしい時がいつかを判断するのが神であっても、私たちは
その時が来ることを心に留めておかねばならず、その時に備えておく必要があります。
しかし、時を待つということだけであれば、わざわざたとえで語らなくても、「ふさわしい時は必ず来るから、待ちなさい」と言えば良
いはずです。それなのにイエス様はたとえを語ります。
「たとえ」とは、「同じようなものを示すこと」によって、語り手が伝えたいことを受け入れるようにさせるものです。つまり、伝えたいこ
とをそのまま宣言するだけでは、人は受け入れないということです。そのことは、十戒などの律法、すなわち「人間に対して神が『こ
のようにあなたが生きることを私は願っている』という思いを込めて与えた戒め」を神が語っても民が受け入れなかったことに現れ
ています。それゆえに、イエス様はたとえを用います。人が自分で考えるためにです。ところが、語られていることを捉える理性が
聞き手になければ、たとえは何のことか分からないままです。理性が働くのは、たとえの中に隠されていることを聞こうとすることに
おいてです。これが、私たちの理性を働かせようとする神の意志です。
ふさわしい時を待つことを、私たちが自らの理性をもって受け入れるために、イエス様はたとえを語ります。たとえの中には、隠さ
れているものがあります。隠されているがゆえに、何もしないままでは、隠されているものが何かは分かりません。それでもひとまず「
何かが隠されているたとえ」が与えられなければ、隠されているものも私たちには与えられません。たとえの中に伝えたいことを隠し
て、神は語ります。そこに込められたものを私たちが自分のこととして受け入れるためには、自分の理性で考えることが必要です。
自分の理性で考え、たとえに隠されたことを受け取った時、自らの責任においてふさわしい時を待つでしょう。時を待つ力は、たと
えの中にあります。待つ人は、たとえを受け入れ、それを自らのうちに宿した人です。毒麦が見えていても、焦ることなく、諦めるこ
となく待ちます。忘れることなく待つのが、たとえを宿した人です。
私たちキリスト者は、天の国を待っています。待ち続ける私たち自身が、たとえそのものを生きています。時を待ちながら、私たち
は天の国に入るように備えられます。時を待つように私たちに備えをさせるのが、イエス様がたとえを語る意義です。
私たちは今はまだ、ふさわしい者ではないかもしれません。何の備えもできていないかもしれません。しかし、必ず収穫の時は来ま
す。収穫に至るまでに、あなたは整えられ、神の収穫とされていきます。それは、自分では整えられているとは思えないような仕
方でです。しかし、神の言葉は、あなたを造り替えるために語られます。神の言葉を聞くあなたは、見えないところで形作られてい
ます。
焦らず、諦めることなく、神を信頼して、歩み続けましょう。あなたが待ち望んでいる時を神は必ず来たらせてくださり、あなたは
天の国に入るでしょう。