2023年  7月 30日  聖霊降臨後第9主日

      聖書 :  列王記上             3章 5節~12節
            詩篇                119編 129節~136節
            ローマの信徒への手紙     8章 26節~39節
            マタイよる福音書        13章31節~33節、44節~52節

      説教 : 『 受け身から能動へ 』
                    信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  358、 413、 290、 391

今日の日課で、44節から始まる、「天の国は」 と語られる最初の二つの譬え話は、非常によく似ています。

畑に隠された宝と、高価な真珠の譬え。 ここでは、それと出会った者は、「喜んで」 「持ち物を売り払う」 と
あります。 本当にこのことを、私たちが実践してみたらどうなるでしょうか。 かなり怪しい、いや、危ない新興宗
教になってしまいますね。

しかし、イエスが言われたのはこうでした。 「天の国は次のようにたとえられる。」 つまり、それは譬えです。
したがって、ここでは、それと出会うことは何よりも素晴らしいことである、というのが一番の力点であることを、見
失わないことが大切です。

譬えの中で宝や真珠と出会った者が、予期もしなかったほどのその素晴らしさに、他に何も惜しいとは思わな
くなるほど、喜びに満たされた、とありますが、「天の国」 とはそのような価値のあるものだよ、というのがこの話の
内容です。

つまり、発見者の行動よりも、発見する対象物に、強調点が置かれていると見る方が、正しいと思うのです。

しかし、それでも、あえてここで言いますが、これは譬えです。 したがって、福音に出会ったはずの私たちが、
前と全く変わらぬ生活をし、神と隣人のため何の喜びの応答もしようとしないなら、それもまたウソではないかと
思います。
 

救いは神の約束ですが、救われたあと、自分中心の生き方に戻ってしまう人には、残念ながら、もはや本当
の喜び、幸せはありません。
 

見かけは元気でも、それはイミテーションです。 早くそういう方は、自分が実は飢えた者であることに気付き
、初めの頃の愛に戻ってほしいと思います。

私たちは初めの愛に何度も帰り、出会い直し、そしてその時、強いられて、ではなく喜び仕えることを再発見
します。
 

そうです、それはノルマでも何でもなく、喜んで出来ること、そして、そのためなら損してもいいと思えることなの
です。 愛されている喜びと、自分もまた主を愛する気持ちから、そうせずにはおれないという自発的なものです。

これが基本です。 つまり、何物も人の意志を拘束すべきではありませんし、大切なのは、自分は神と人の
ために何をしたいかということです。
 

あなたが神との間で祈り、決めたこと、このためなら自分は損してもいいと思えることが、本当のことです。 間
違ってもそれは、自分のために損することが目的であってはいけません。
 

また、力や数がその正しさを決めるのでもないことを、よく知っておくべきです。 それらは全く逆の判断さえする
ことがありますし、どちらにせよ、それを自分の言い訳にすることは、神の前に正直な姿であることは言えなくなり
ます。

それらをすべて踏まえた上で、もう一度、主の呼びかけに対し、私たちは自分を振り返ってみたいと思います
。 私たちは本当に福音と出会い、そして今も喜びに生かされているでしょうか。 答えは各々が見つけることで
す。

ところで、今日の日課の後半には、さらに二つの話が出て来ます。
 

その一つ目は 「網」 の話、これは読んですぐ分かると思いますが、神さまを侮らず畏れて生きなさいよ、という
教えとなっています。
 

先の最初の二つの譬えが、「天の国」 の約束すなわち福音の素晴らしさ、またその出会った者の喜びについ
て触れられてあったのに対し、急に暗い、怖い話になったような感じがします。
 

しかし、私たちが実際の地上での生活を終えるまでの間、福音に出会ったのちも、「天の国」 がもたらす明
暗を忘れてはならないよ、ということを思い起こさせる上で、また私たちに善を奨める上で、これはむしろ自然な
話の展開であったと言えるかも知れません。

私たちは、教会に属してしまえば、自動的に神の御心を遂行できるとは思わない方が良いでしょう。

私たちはいつも、聖霊の導きを必要とする者です。 そして、もし過ちに陥った場合は、神の前に懺悔し、ま
た新たに歩み直す力をいただくことが必要です。
 

それは正直に告白しなければ、ただ定型句を唱えるだけでは、十分に心が伴った、また、信仰の成熟した
大人の祈りとは言えないと思います。 「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊」 (詩編51編19節)
です。 私たちは神と人の前に、福音に出会い 「持ち物をすっかり売り払った」 者のように、武装せず向き合う
者でありたいものです。

さて、日課後半の最後の部分についてですが、これも前の 「網」 の話に続き、福音と出会ったのちも私たち
がどう生きるべきかを示す、もう一つの側面を記していると考えてよいでしょう。
 

扱っている題材も「天の国のことを学んだ学者は」 とあり、やはりその捉え方が自然です。 そしてそれは 「自
分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」 ということですから、すなわち、そのようで
いい、ということをイエスは語られたと理解できるわけです。

つまりイエスは、福音のことを本当に理解した人には、何が大変なことか取捨選択することができる、またその
ような能動的な様を主はたいへん評価する、と言われたと受け取ってよい文章なのです。
 

もちろん、他の 「古い」 を律法、「新しい」 をイエスの教えとするような古典的解釈もありますが、少なくとも、
いま述べたように見ることも可能です。
 

むしろ、教会中心的にだけ読んでしまう従来のスタイルより、これが自然だと思っています。 またその方が、
同じく 「天の国」 について、それが誰のものかを示した山上の垂訓(5章10節)とも、素朴に読んでみて
ピッタリと合うのです。

主は私たちに、能動的な責任を与えられた、とみることは、いたって自然なことです。 何がより良いことか、
何がよりふさわしいことか、何が他にも可能なことか、それらへのチャレンジを、いろんなことに対して、私たちは主
から託されていると思うのです。

ですから、例えば、よく教会で用いる慣用句にしても、近年の検証に照らしてみて、本当に耐え得るもので
あるのかどうか、私たちが真実でありたいと願うのならば、ただ伝統に追従するのではなく、より正確に神さまを
伝えるものに替えていっていい、そういう努力が惜しまれてはならないと考えています。
 

他にも、いろんな課題があります。

少なくとも、他教派でも取り組みが既になされ指摘されているものについては、オープンにして、無関心であっ
たり放置したり、また十分に議論も重ねないうちに自分たちに都合の良い結論を出したりするのではなく、誠
実に向き合うことが必要と思います。
 

それらには、痛みが伴うかもしれませんが、主の死に比べれば、全くの何てことはありません。 私たちも、日
々死に、日々生きることを恐れてはならないのです。

取り組むべき課題は多岐に渡っています。 それだけ期待されているということです。 分けても、平和、人権
、環境に関することは、緊急です。 教会が祈りの発信地です。

私たちは、神と人々のために、自分たちの今までの歩みにこだわらないで、必要なことならば、自分たちのス
タイルを変えることも喜んでできるようになりたいものです。
 

パウロ先生は 「福音のために」 「すべての人に対して」 「すべての人のようになった」(第一コリント9章2
2節、23節/口語訳)と言いました。
 

私たちも、福音のために、また隣人の幸せのために、まだまだ前進をすることができるのではないかと思います。

お祈りいたします。

神さま。 主イエスを通し私たちに、天の国のことを教えてくださり、またいろんな期待をかけてくださったことを
、畏れかしこみつつ感謝いたします。 どうか私たちが、あなたの愛に立ち、大胆に、福音の宣教のため、また
隣人の幸せのため、祈り行動する者となれますよう、聖霊による導きをお与えください。 主の御名によって祈り
ます。 アーメン

                                   戻る