2023年  6月 4日  三位一体(白)

      聖書 :  創世記               1章 1節~2章 4節a
            詩篇               8編
            コリントの信徒への手紙Ⅱ  13章 11節~13節
            マタイよる福音書        28章 16節~20節

      説教 : 『 励ましあい、平和を保ちなさい。 』
                          木下海龍牧師
      教団讃美歌 :  66、 249、 67、 276

 

復活後、イエスの昇天に立ち会った弟子集団の中には、ひれ伏す者も疑う弟子もいたとあります。
当時の弟子集団の中において、復活を信じて生きるその信ずる内側は均一ではございませんでした。
それは今日のキリスト教徒においてもそうであると見てよいでしょう。各自が自分の人生の総体を抱え
て、弟子の道へと招かれているのです。決して均一ではなかったのであります。
 21世紀の時代に入っている今日は、さらに、思想も環境も変遷して移り行く時代の中では、信じる内
面が、信仰者の間で均一にはなり得ないでしょう。
 同じ信条集を受け入れている信仰集団ではありますが、個々人の理解の程度や、その受け止め方
の内実が、信仰集団全体が均一でなければ教会は成り立たない、と考える必要はないのではないでし
ょうか。
 それぞれのバックグランドは異なるものなのであります。その違いがあるにも係わらず、イエスを信
頼して、信仰へと招かれてゆく上で、信じて理解する個々人のいささかの違いは、何らの妨げにはなら
ないのであることを証言しているのです。
 弟子たちのなかには、自分たちの理解を超えた復活の出来事に疑いを抱いたまま、それでも生前の
イエスを尊敬して止まない気持ちを抱いて、ひれ伏す人もいた、と、マタイが書き残したのです。敢えて
書き記した意図はどこにあったのでしょうか。
 主の復活と召天を目の当たりにしたすべての弟子たちは、いまだ40日程度しか経過していない中で
は、考え祈り決断に至る歳月の時間が短いゆえに深く考える時間が足りなくて、すんなりと、復活と召
天を信じて受け入れたかどうかは、今日的に考えても、人間的に百パーセント信じて受け入れるのは
困難であったのではないか。その出来事はもっぱら神側でおこされた奇跡的な出来事であるのですか
ら。当時であっても、人間側としては信じて、受容するには時間と霊の働きを待たねばならなかったの
ではないでしょうか。
 自分なりに、納得して、信仰の世界、即ち、この道に入って行きたい、と思うことも普通にはあるのだ
と思います。自分なりに納得して、理解して行動したいとするのはその人の誠実な生き方であると考え
てもいいのではないでしょうか。
 その人なりの理解力・知識の広さ深さ、人生経験の多岐にわたる道筋などいろいろとありましょう。そ
うした事柄を十分に消化しないままに、にわかに100%純粋に信じ信頼するには…まだそこまでには
自分は至っていない。と思っていた弟子たちもおられたのではないでしょうか。
 しかしながら、昇天を直前にして、イエスご自身は彼らに近づいて、派遣の言葉と権限と保障を宣言
されたのでした。
 ここでマタイが使った「疑う(ディスタゾー)」の「ディス」は「二つ」を意味します。したがってディスタゾー
は「二つの方向に歩む」になります。人の心の中に二つの思いがあり、一方はこちらに、他方はあちら
へと分裂した様態を表します。この単語は新約聖書に、もう一か所に於いて使われています。
 マタイ14:31です。イエスのもとへ行こうと水の上に降りたペテロは突風に荒れる波を見て恐れて溺れ
かかると、イエスが手を差し伸べて助け「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。ここでの「疑
い」です。 ペテロの心は二つに分かれていたのです。イエスのもとに行きたいと思いながら、他方では
イエスとの間に遮る荒れた波を見ておびえたのです。これがここで使われている「疑う(ディスタゾー)」
であります。
 仮に何らかの疑いが起こったとしても、初めに導かれたその道を歩み続ける事が大切なのです。  
 この疑いを契機にして人生を歩み続ける中で、心と身が鍛えられ、分からなかったことが理解できた
り、新しい気づきを与えられたりする経験の中で、「本当に、あなたは神の子です」と礼拝するに至る
のです。
 つまり疑い・ディスタゾーが契機となって、鍛錬された真の信仰へと至る事がしばしば起こります。
 主に招かれて歩み続ける途上で新たな気づきや発見、そして改めるべきところを改めることになるの
です。最初から完全な人はおりません。何の問題もない人はいないのです。それでもイエスは彼らに近
づいて来られて、宣言を発しました。 それが弟子たちから恐れと疑いを取り除いたのです。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民を
わたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じてお
いたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
。」
28:18-20
 キリストはイエス自身が歩んだ道を歩こうとする一人一人の事を祈り、愛し、信頼して導いておられる
のです。
 マタイ福音書のテーマの一つが、「弟子になる」ことであります。マタイが私どもに教えている内
容は、イエスの語りかけを絶えず受け、それに生かされる「弟子になる」人であります。弟子にも生きる
途上に「疑い」が生ずることがあります。しかしながらその「疑い」は真の信仰への前段階であるのです
。それゆえに、「疑い」が自分に起こっても、尻込みをすることなく、「疑い」を契機にして、一層深く・高
い・強い確信に至る入口に至っているのだ、と、マタイは強調しているのです。
 本日の説教題は三位一体主日である今日の使徒書のⅡコリント13:11-13から頂きました。 いわゆ
る思量深くて信仰厚い人、信仰に目覚めたばかりの人、肉体の痛みや苦悩を抱えている人、寂しさを
感じて生活しておられる方々・・・そうした方々によって教会の会衆は構成されております。そうした状
況の中で、教会はイエス様を頭としたイエスの体と血潮に結びついた一つの体であるのだとパウロは
教えています。
 それであるから、パウロは付け加えています「 不完全な所があれば改めなさい。励まし合いなさ
い。思いを一つにしなさい。仲良く暮らしなさい。そうすれば、愛と平和の源である神が、あなた
がたとともにいてくださいます。
」フランシスコ聖書研究所訳註 「聖書」p501 と。 パウロは殉教す
る2年前にこの手紙を書いているのです。
 この手紙を受け取ったコリントの信徒たちは、これはパウロが自分たしに残してくださった遺言状とし
て受け止めて、一層熱く、励ましあい、諭しあいながら、コリントの信徒たちは主日ごとにこの手紙を読
み上げたのでした。
 その後もながくこの手紙をパウロの遺言として読み継がれて、今の世界中の教会信徒にとっての聖
書=聖典 となって継承されて参って来たのです。
 主よ、わたしどもを憐れんでください。パウロの言葉を私どもへの遺言として、継承して参ります。わ
が主よ、上より、富士教会一人一人を導いてください。アーメン。

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