2023年  7月 9日  聖霊降臨後第6主日

      聖書 :  ゼカリヤ書            9章 9節~12節
            詩篇               145編 8節~14節
            ローマの信徒への手紙    7章 15節~25節
            マタイよる福音書        11章16節~19節、25節~30節

      説教 : 『 やすらぎの主 』
                 信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  375、 294、 320、 410

本日の説教は、以前東海教区におられた内藤文子先生の説教で、現在は東教区の小岩教会におられま
す。

1.     生きる現実

2001年、日本の国で 「ハンセン病訴訟」 があり、首相が 「控訴断念」 しました。20年ちょっと前の話で
すが、みなさんの記憶にあるでしょうか?内藤先生が神学校の最終学年の年の授業に 「臨床牧会訓練」 が
あったそうです。それは、病院・施設などで、心と体に痛みを担う方と共に語り、聞き、心を通わせる学びの場
でした。そして、その場として通ったのが東京都清瀬市にあるハンセン病の方々の施設 「多摩全生園(たまぜ
んしょうえん)」 でした。共にお茶を飲み、カラオケを歌い、ベッドや居住アパートをお訪ねしました。既に特効薬
が見つかり、治る病となったハンセン病でありますが、差別は根強く、隔離政策は続いていました。

内藤先生はハンセン病についてテレビのニュースが流れると、この実習で出会った方々が思い出されたそう
です。その中の一人の男性は、園に来てもう20年になると言われていました。病ゆえ家族からは縁を切られ、
「死んだことになっている。」 と話されました。一緒にお茶を飲んだ女性は、手足の変形・神経のマヒ・視覚障
害に苦しんで来られました。包帯の巻かれた手でやけどをしないように二重焼きの湯のみでお茶を飲む。 「“ふ
れあい喫茶”は、多くの仲間に囲まれ楽しい。」 と言われました。約80年前に特効薬が出来、治る病となり、
現在は菌も弱く、移ることもゼロに等しいのです。しかし、日本の無知と差別は依然として根強かったのです。

 

2.     人間の対応

このような現実を見るたび、「理不尽」で「むごい」としか言いようのない人間の姿を知ります。そしてその現
実を造り出しているのが私たちなのだと。そして人間は、懺悔し現実を変えていく努力をせねばならず、そうし
なければ現実は変わらないということを突きつけられます。しかし、罪深い人間ゆえ、それは時間がかかり、道
は遠いのが残念ながら世の常と一方では感じるのです。20世紀は「戦争の世紀」で、今なお戦争が起こって
います。今、戦争のない日本に生きている私は、ホロ・コースト(集団虐殺)を見たり聞いたりしながら、虚無
的になりつつ死んで苦しんだ方たちを知り、鎮魂歌(レクイエム)を歌い、頂いた平和を無にせぬようにと毎日
に「感謝と祈り」を捧げるのが精一杯です。自分が今という時を生きていてできる精一杯をなすことですが大切
かと思います。人間がやるべきことはあります。先に述べた、治る病となった「ハンセン病」ですが、アジアの各地
には、貧しさゆえ、薬が届かずまだ何万という患者さんがいると全生園で聞きました。早い治療を祈らずにはい
られません。

以上、人間の罪の現実と人間愛からの生きざまを「ハンセン病訴訟」ということを題材に見てみました。

 

3.     神の癒し

さて、人間の側の「生きる」ことの現実を見てきました。平和を願う運動があるとすると、差別をなくす学びが
あると思います。しかし、それだけで人間の生きる現実の、たとえば「ハンセン病」という現実の「理不尽」が解決
できるかと言うと、そうではなく、それは人間の側の単なる「愛の行為」の一面なのです。本当の「生きる」と言う
ことの厳しさ・惨(むご)さと言うこの「理不尽」をあがなう方は、神しかいないのです。人間という限界を持った罪
深い存在を、最終的に救い・癒す方がいることを聖書は示します。

本日の福音書の箇所は、ある聖書の暗唱聖句のアンケートでナンバーワンでした。それは、28節、「疲れ
た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう。」それだけ、人は疲れ、苦しん
でいるのです。肉体的にも精神的にも、様々な労苦で人は重荷を負い、心身が疲れ、憩いを必要としている
。私たちの真の憩い、魂のやすらぎを与えてくれるのは、主イエスさまです。イエスさまの言う憩いとやすらぎとは
、何でしょうか。それは「神の愛」に他なりません。ここで初めに例をあげた「ハンセン病」を聖書に見てみましょう
。同じマタイでは、82節に出てきている重い皮膚病の人はハンセン病と考えられます。また、108節、
11
5節、266節にも出てきますが、イエスさまは、この2000年前、苦しみと差別の中にある方々と、直
に接し、癒しの業をなさっているのです。イエスさまの姿は、どんな境遇にある人も心から愛し、その人の望むと
ころを理解し、愛の行為をなさったことです。それは、産まれて、人としての生涯を送り、十字架で「罪の赦しと
あがない」を成し遂げるまで貫かれました。
 

神様がいらっしゃって、イエスさまとして現れ、その「愛の行為」を見せ、私たちの道を示してくださったのです。

ここでまた、ハンセン病の方の言葉を思い出しました。「発病したあの日からお母さんに抱いてもらえなかっ
た。」悲しみは人と人とを離してしまう不幸なことです。愛する人と隔離されるのは何と言う悲しみでしょう。イエ
スさまの愛は、それをやさしく癒す言葉で満ち溢れています。29節、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたし
のくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」くびきとは、二頭の牛をつ
なぐために用いられた農具です。二頭は歩みを同じにされるが、荷の重さを片方が担ってくれるのです。主とくび
きを共にするとき、主が私たちの荷を軽くしてくださるのです。

わたしたち、一人一人が、たとえひとりぼっちになった時も、他の人から捨てられ苦しめられた時も、決して
捨てず、愛し守る方がいる。それが神なるイエスさまです。そこに本当のやすらぎがあることを感謝いたします。

<お祈り>

愛の神さま。たとえ私たちが悲しみの現実の只中にいる時も、イエスさまを通して、愛とやすらぎを与え続けてく
ださることを感謝します。世が平和に向けて変えられていきますように、私たちに働かせてください。 み子、主
イエスキリストによって祈ります。アーメン

                                      戻る