2023年 8月13日
中村朝美 牧師
列王記上 19:9~18、詩篇 85:9~14ローマ 10:5~15、マタイ 14:22~33

私はあなたの神である
 
本日の福音書の箇所、「安心しなさい。 私だ。 恐れることはない。」と語られたイエス様の言葉から福音を
聞いていきたいと思います。

牧師で作家の佐古純一郎さんは、「パウロと親鸞」 という本の中で、
『旧約聖書において神の名前がはっきりしない。 浄土宗では阿弥陀仏、はっきりとしていて、南無阿弥陀仏
、と唱えることは、阿弥陀仏に帰依します、つまり阿弥陀仏を信じます、と唱えている。 けれども旧約聖書で
は神様の名前は、その長い歴史の中で分からなくなってしまった、そんなことはない、ヤハウエという名前がある
ではないか、と反論される方もいるかもしれないが、ヤハウエという読み方も厳密に言うとわからないのだ。』 と述
べられています。

確かに、ユダヤ人たちは現在も聖書を朗読されるとき、聖なる4文字がでてきますと、そこを 「アドナイ」我が主
よ、と読み替えています。

モーセの十戒で 「神の名をみだりに唱えてはならない」 と禁止されていたため、ユダヤ教の長い歴史を経ていく
うちに分からなくなってしまいました。

それでは異邦人から 「あなたの神の名前は何というのか、と聞かれたとき、何と答えましょう」 とモーセが神に聞
いたとき、「有って有る者」、「私は在る」 と答えなさい、と言われました。

「有って有る者」、「私は在る」、何れも分かりにくい日本語ですが、私たちの信じている神様は 「私は存在する
」 というお名前と言えるでしょう。

嵐の中で弟子たちが乗った舟が木の葉のように舞い、弟子たちが恐れ、あわてふためいていたとき、「私である
。 恐れることはない。」 と語りかけられたことは、嵐の真っただ中に 「私は存在する」 あなたの神である、と宣
言されたといえるでしょう。

天地を創造された神がここにいるのだ、だから恐れることはないのだ、と弟子たちに言われたのです。

信仰とは恐れからの解放と言えるでしょう。

いかなる恐れも、この世の嵐が吹きまくり、前にも風で遮られて進めない、後ろからは恐ろしい得体の知れない
ものが追いかけてくるように見えるとき、人間の目から見ると絶望とも思えるような場面にイエス様は歩み寄って
来てくださる、と宣言されているのです。

徹底的に絶望したときに見出すのが、本当の希望であると思います。 そうでない希望は、希望でなく、単な
る空頼みに過ぎないのではないでしょうか?


「あなたの神がここにいる。 だから恐れることはない。」

この言葉を聞いたペトロは一刻も早くそのように語る方のそばに行きたたかったのだと思います。

水の上を歩いて行くことが一番早くイエス様のそばにたどり着ける、そう考えたから、水の上を歩くことを願い出た
のでしょう。

信仰とは、このような大胆さを持つもの、あるいは冒険という側面もあります。

目に見えないものを信じるというのは大胆なことであり、冒険でもあります。 見えないものを確かめることはでき
ません。 信じて踏み出すことです。

十字架にかけられ、死なれた、そして3日目によみがえられたキリストを、見えない姿でも今も私たちと共におら
れるということを、私たちは信じています。

見えないキリストがおられる、私たちはこのリアルプレゼンス(現臨)を信じるのです。

ペトロは 「来なさい」 という言葉に従って、水の上をイエス様に向かって歩き始めました。

数歩かもしれませんが、確かに歩きました。 人間の力ではできないことがキリストの力で、人には出来なくても
神には出来る、このことをマタイは、はっきりと私たちに伝えてくれています。

けれども、ペトロはイエス様から目をそらしてしましました。 この世の常識、価値観に足元をすくわれてしまった
のです。

溺れかけた時、ペトロは、「主よ、助けて下さい。」 と叫びます。

「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」、主はペトロに向かって手を伸ばし、つかまえながら言われました。

「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」 私たちはいつも自分の信仰の不徹底さ、曖昧さ、弱さを心のどこかで感
じています。

キリストだけを見つめていなければならないのに、あちこちに目を奪われてしまいます。

突然の苦しみや悲しみ、絶望が私たちを圧倒するような時、キリストを信じていてもこの世の荒波に溺れそうに
なる時があります。 「主よ、助けて下さい。」 としか、叫ぶことの出来ない時があります。

しかし、そのような時に、溺れるペトロにすぐさま手を伸ばして、しっかり捕まえられたように、主は私たちをその、
御手をもってしっかりと捕まえて下さることをこの出来事は伝えています。

椎名麟三が洗礼を受けた時に 「ああ、これでおれは安心してジタバタして死んでいける。」 と言ったそうですが
、私たちは、安心してジタバタしていい、安心して溺れてもいい、主よ、助けて下さい、と何度叫んでもいい、信
仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか、と何度言われてもいいのです。

そう言われた主は、私はあなたの神であると宣言され、その御手の中にしっかりと私たちを包んでいて下さってい
るのですから。 信仰は、このキリストの働きに全てを委ねていくことです。

お祈りいたします。

神さま。 私たちを憐れんでください。 私たちの心はいつも揺れ動き、揺るがぬ信仰を持ち続けることが出来な
いでいます。 このことを悔い改める日々を過ごしております。

そのような私たちにいつも救いの手を差し伸べてくださる方がおられることを、信じていけますように、私たちを導
いてください。 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。  アーメン

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