2023年8月20日 聖霊降臨後第12主日 富士教会 木下海龍
イザヤ56:1,6-8、詩編67、ロマ11:1―2a,29-32、マタイ福音書15:21-28
教会讃美歌 171、375、470、382
説教題「信仰は人種と階層を超えて」
今日においては 人類が既存する諸宗教に求められていることは、他の宗派・諸宗教よりも己が属
している宗教宗派が、いかに優れているかの証明などではありません。
それは、今日の人類が当面している課題や苦悩性にいかに向き合っているか、その人間が陥ってい
る困難性と苦悩にいかにコミットして、誠実にかかわっていけるかであると思っております。
勿論その個人は、ある特定の国の中で生活しており、ある種の哲学や宗教性が背景にはあるもので
す。
哲学や宗教性は人類の長い歴史の中で、命の有限性と願ったようには人生が営なまれてゆかない中
で生きて行かざるを得ない状況に陥って、どうしようもないと思うことがあっても、それでも、意識と知性
のある存在として、より質の高い、おのれが納得した人生を生きてゆくために、哲学と宗教性の必然性
を創造するに至ったのではないでしょうか。
個人が新たな、真っ当な哲学体系や宗教性を創造することは至難の業であります。
国と場所によって、既に存在している宗教とその指導教師との出会いの中で、選び選ばれる体験をし
て行くものです。
それゆえに自分が生まれ育った場所や国によって、いささかの違いが起こるのは当然でありましょう。
私はクリスチャンになり、牧師なってから、瞑想や座禅体験を始めたのですが、もしかしたら、キリスト
教に出会う前に、禅宗と老師に出会う機会があって、導かれていたならば、禅僧になっていたかもしれ
ないなあ!!?? と思った事もございました。
実際はルター派のキリスト教の先生方に出会って、洗礼と按手を受けるに至ったのですが。これは
私の個人的な計らいを超えて、創造者である神の導きがあったからであったと言うほかはございませ
ん。
宮沢賢治の表現を借りて、本日の聖書個所のカナンの女の言葉を言い直すならば、以下の信仰告
白になるのではないでしょうか。「『本当の本当の神様』でございますれば、哀れな私の娘にも癒し
の御手を惜しむことはなかろうかと信じ、かつ理解しております。」と。
普段の生活の中では、信仰者は自分は「本当の神様」を信じ・従って生きていると思い意識している
ものです。 時たまですが、異なる宗派で「本当の神様」を信じ従っておられる方と宗教の問題で対峙
することが稀にございます。私など大方は、面倒くさいから避けますが、相手が真面目であったり、時
間があれば対話をいたします。仏教一般では民衆救済に登場する仏を菩薩様と呼んでいます。この地
上を歩まれたイエスの宣教活動は菩薩行に近いのではないか、と話しあったり致します。「呼び名」は
背景と時代と地域性によって異なりますが、その役割の類似点は少なくありません。
これはほんの一例にすぎませんが、八木誠一(キリスト教神学者)は秋月龍珉(臨済宗師家)・・との
対談ではイエスの事を禅仏教的に言えば『空』なる存在であると言っています。
参照 徹底討論「禅とイエス・キリスト」19891130青土社Pp342
イエス・キリスト自身はユダヤ教の背景を持っており、その教えやメッセージはユダヤ教の教義や思
想と深く関連していました。
イエスが宣教した時代のティルス(Tyre)とシドン(Sidon)は、現在のレバノンに位置する都市であっ
て、古代フェニキア地域に属していました。これらの都市は商業や海事で知られており、その文化と宗
教はユダヤ教やローマ帝国の支配下でさまざまな影響を受けていました。
ところで、古代フェニキアの宗教は多神教的であり、神々への崇拝や祭りが行われていました。主要
な神々には、バアル(Baal)やモト(Mot)などが含まれています。バアルは農業と豊穣の神とされ、モト
は死と冥界の神とされていました。これらの神々への崇拝は、収穫や海事などの生活の側面に関連し
ていたと考えられています。このカナンの女は娘が生死にかかわる悪霊による病から娘が癒されるよ
うにと熱心にイエスに願い出ております。「主よ、ダビデの子よ」と崇敬を表す言葉で願い出ました。女
はさらにイエスの前にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と願います。この女は彼女なりの人の生
死に決定的な権能をイエスにはあると深く信じて、娘の癒しはこのお方によって為されると固く信じて、
イエスからの応答や拒絶を受けつつも決して諦めませんでした。
しかしながらイエスは異邦人にまで癒しと宣教の幅を広げることには、この時点では迷いがあったの
ではないでしょうか。ユダヤ教の背景を持ったイエスにとっては、まずは失われたイスラエルの羊たち
を救う事に自分と弟子たちの力を集中すべきであると。伝統的なイスラエル教団では、先ずはイスラエ
ルの民が救われることであり、それを見て異邦人もまた神の道へと従って来るものなのだと教えられて
いたからであります。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになられたのは、そうした背
景があったからでありましょう。しかしながら、それに対して、女は言った。「主よ、ごもっともです。しか
し、子供たちのパンを奪い取るのではなくて、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。
」ここに、伝統的なイスラエルの信仰体系とはいささかの違いがあったとしても、『本当の本当の神様
』を認識し、信じている彼女であるがゆえに、この告白になっているのです。それだからこそイエスは、
深く感動なさりながらおっしゃったのです。「『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおり
になるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」
人間が考えている神の領域についてのイスラエル人とカナン人とのいささかの違いを突き抜けて『本
当の本当の神様』を見ているこの女に向かって「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願
いどおりに成るように。」と即答されたのでした。
ここまで言い切った、この女は立派であったと言うほかはありません。
或る意味、イエスと堂々と渡り合って、イエスは迷いながら彼女の娘を癒さない言い訳を言っている
言葉を突き貫いているからであります。この女はイエスに出会った時から、終始一貫してこの場面にお
いては、イニシアティブ(initiative)を彼女自身が執っていたと見てよいでしょう。自分の願い(祈り)をさ
さげながら、積極的に行動を起こして、娘の癒しの課題に対して自分から行動を起こしているのです。
他人が指示するのを待つのではなく、自ら進んで、提案しながら、課題に取り組む姿勢を示していると
言えましょう。
それ以上にイエスもまたここでは一大決心を示されたのでした。この告白に共感し、感動して、自ら
はイスラエル宗教の出身でありながら、オーソライズされたイスラエルの宗教の枠を超えたのです。
或いは真の神信仰に立ち返ってこの女の願いに即答されたのです。それは権威主義的なエルサレ
ム中心宗教集団を、明らかな形で、敵に回す言動をしたことになったのです。このことはまだまだ、時
が来るまでは十字架への道は秘められていたのだけれども、この女と対峙する真剣さの中で、一瞬稲
妻のように示された場面であったと言えるのです。
宗教の形式は異なっていても信仰者が『本当の本当の神様』に立ち返っている対峙することの偉大
さがここにはあるのではないでしょうか。
宗教間の自己主張や対立を超えて、本当に人類が必要としている心身の癒しと解放に向けて宣教
するイエスの姿がここに見るのではないでしょうか。
私の狭い交流からではありますが、カソリックの神父・シスターや禅仏教、神道系の人人と出会って、
一緒に何かをするたびに、勇気と喜びをこの聖書の個所からしばしば受けて参りました。
祈りましょう。
主よ、私どもを憐れんでください。地球上に生きるすべての人々が、その違いを特徴にしたままで『本
当の本当の神様』に導かれますように。この違いのままに、個性的で掛け替えのない存在として、お互
いに尊敬と愛をもって交わりを持ち続けられますように、お力をお授けください。 アーメン。
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