多少の躊躇はあったでしょう。でもペトロは、思い切ってイエスに自分の思っていたことを伝えました。 「あ
なたはメシヤ、生ける神の子です。」 と答えました。イエスが、「あなたがたはわたしの正体が分かっているか。」
と弟子たちにお尋ねになったからです。ペトロが 「思い切って言った。」 というには、訳がありました。それまで、イ
エスについてガリラヤ地方の村々を回り、村人たちとイエスの教えに耳を傾け、さまざまな奇蹟を目にしてきたの
に、それでも困難や試練に遭うとすぐ不安になったり恐れたりして平常心を失うことがありました。ガリラヤ湖で
突風に襲われたときも、信頼する主が舟に乗り合わせていたにもかかわらず、「もう駄目だ。」 などと簡単に絶
望を口にして度を失い、イエスに 「なぜ恐れるのだ。」、「まだ(わたしが一緒にいることを)悟ることができない
のか」 とお叱りを受けることが少なくありませんでした。それだけではありません。湖と風を静めたイエスを見て 「
湖も風も静めることができるこの人は、一体、どなたなのだろう。」 と、みんなで話し合うことが一回や二回では
なかったからです。「ほんとうに、このお方は誰なのか。」 自分でも、いまいち、自信がない。 多少のうしろめた
さがあったけれど、主イエスのお尋ねに思い切って答えたのでした。
イエスはペトロの告白を聞いて、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現わしたのは人
間ではない、わたしの天の父なのだ。」 と言われました。ペトロは、確信をもって 「イエスは神の子だ。」 と告白
するのに充分な資料を持っていたわけでも、集めた情報を検討したわけでもありませんでした。人間的な手立
てをして答えたわけでは、決してありませんでした。しかし、それだからと言ってまったくイエスを知らなかったわけ
ではなかったのです。イエスが語る教えに心を揺さぶられたこともあったし、病む人に差し延べた主の癒しの御手
に感動したこともありました。萎えた体を動かす力と気力を失った人に言葉をかけると、たちまちその人を立ち上
がらせてしまう力強い言葉を、いくたびとなく、聞いたこともあります。ペトロはそのような体験や感動を表に出す
こともなく、このときまで、自分の内側にしまいこんでいました。悪霊すら、とり憑いた男に喋らせてイエスの正体
を言い当てているのに、弟子たちのうち、誰一人、イエスが誰であるのか告白するものがいなかったのです。不
思議といえば不思議です。 しかし、考えてみれば、イエスに関する知識をもっているとか教えに興味をもって
耳を傾けたとしても、あるいはイエスの言葉に感銘を受けてその言葉を座右の銘として壁に掛けたとしても、そ
れで信仰告白ができるわけではありません。「あなたに、このことを現わしたのは人間ではなく、わたしの天の父
なのだ。」 とペトロにイエスが語った通り、人間の知恵とか知識によるものではないのです。注目したいことは、ペ
トロがイエスの問いかけに答えていることです。わたしたちの信仰は、いつも問いかけられているのです。そのこと
を承知してイエスの前に立つことです。 これは大切なわたしたちの姿勢ではないかと思います。「あなたは幸い
だ、これをあなたに現したのは他ならぬ、わたしの天の父なのだ。」 と、イエスはペトロに言われました。イエスの
前に立つと、真実の姿が見えてきます。本当のことを教えてもらえるのです。
この日課には含まれていませんが、このあと大きな事件が起きています。それはペトロがイエスに悪魔呼ば
わりされるほどの事件です。発端は、イエスが、自分の十字架の苦難と死を弟子たちに予告したからです。そし
て、驚いたペトロがイエスを諫めて 「そんなことがあってはなりません。」 と言ったからです。人間の常識ではメシ
ヤとか神の子が十字架の上で死ぬなどということは狂気の沙汰で、夢にも思わないことです。しかし、他の弟子
たちもそうであったように、ペトロは、イエスが神の子であるということが何を意味するのかを理解していなかったの
です。
マタイ福音書を通読すると分かりますが、このピリポ・カイザリヤでの信仰告白以後、イエスは再三再四、
十字架の死を予告します。それが神の子に定められたこととして弟子たちに伝えます。マタイは、福音書の初め
に神の子の誕生を書いています。マリヤが聖霊によって身ごもり、出産する。そして、東方の博士たちが星に導
かれてベツレヘムに来て、幼子イエスを礼拝するという、あの聖誕記事です。しかし、マタイは清浄無垢の処女
からお生まれになったということがイエスの神の子である唯一の 「しるし」 だとは考えていないのです。十字架の
イエスこそが、わたしたちへの神の啓示だとしているのです。このところで人間の常識、人間の知恵が破れて神
の知恵、神の知恵、神の力が現れたのです。使徒パウロはこのことを、「神は世の知恵を愚かなものにされたで
はないか。 世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。」(Ⅰコリント 1章20~21節)。「
聖霊(なる神)によらなければ、だれも 『イエスは主である』 とは言えない。」(Ⅰコリント12章 3節)の
だと語っています。 こうした理解はすべて 「これを現わしたのは、わたしの父である。」 と言われたイエスの言
葉に繋がっているのです。イエスの十字架こそ、「イエスはメシヤ、神の子である。」 という神の啓示です。十字
架の上のイエスとその最後のお姿を目撃したローマの百人隊長が、感動して、「本当に、この人は神の子であ
った。」 と漏らした言葉は、異邦人による最初の信仰告白ですが、イエスの洗礼の際の神の啓示としての 「天
来の声」 が、人間の知恵をはるかに凌いで教会の信仰告白となったのは驚くべきことです。
イエスは 「あなたはペトロ。 わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる。」 と言われました。
ペトロが、その名前の通り、土台石となって教会が建てられると言われたのでしょうか。「岩」 とは、実際に、何
を意味するのでしょうか。ペトロはイエスに悪魔呼ばわりされました。そのような人の信仰告白は無効ではない
でしょうか。
ここで忘れてはならないのは、イエスが言われたように、この信仰告白は人間の知恵ではなく、神の啓示
によったということです。神がペトロによって宣言されたもので、ペトロの創意工夫によるものではありません。告
白を語らせたのは神なのです。「イエスは神の子です。」 という信仰告白の内容に少しの疑念もありません。こ
れは受け継がれて、また初代教会の信仰告白となったのです。しかし、このことはペトロの人格から彼の信仰
告白を切り離して、信仰告白だけを重んじるものではありません。信仰告白は、それを告白するものにとって、
自分の存在すべてにかかわるものだからです。告白の言葉が人格から抜け出して一人歩きをしたら、信仰告
白は抽象的なものになってしまいます。わたしたちが自分の信仰をあらわすときも、その通りです。イエスに対す
る信仰の表明は、人格を欠いた抽象的な観念でもなく、単なる知識でもありません。なるほど、わたしたちには
短所が数多くあります。 ペトロにまさる軽率さや弱さがあり、欠けた器のようなわたしたちです。 けれども神は
、ありのままの心をもってするわたしたちの信仰告白を拒むことなく、受け入れてくださいます。
お祈りいたします。
主なる神さま。
聖霊のお導きをもって、わたしたちに 「イエスは主なり」 という信仰告白をさせてください。
数多くの弱さ、欠点をもつものですが、それにお目を留めることなくわたし自身のすべてをもって、告白する信仰
を受け入れてください。
主イエスがペトロに、信仰告白の上に教会を建てるとおっしゃってくださいましたけれど、わたしたちには、主を土
台とする信仰の上に立つことをお許しください。
御子、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン
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