2023年  9月 10日  聖霊降臨後第15主日

      聖書 :  エゼキエル書           33章 7節~11節
            詩篇                119編 33節~40節
            ローマの信徒への手紙     13章 8節~14節
            マタイよる福音書        18章 15節~20節

      説教 : 『 愛は覆う 』
               信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  174、 308、 374、 392

「教会の交わりは、この世の交わりと違って、心から安らぐ・・・。」多くの人は教会生活を始めた当初、その
ように感じるのではないでしょうか。でも少し時が経つと、教会の中にもいろんな人がいて、いろんな問題もある
ということが分かってきます。「教会は心安らぐ場所だ」と考え、兄弟姉妹は良い人たちだ、と考えていただけに
、問題が起きたとき、時に自分の心を傷つけられたり、害を受けたりするとき、教会に対する期待が裏付けられ
たショックが大きいのです。

イエス・キリストが語られているように、兄弟がわたしに対して悪いことをしたと考えるときには注意が必要で
す。「わたしはどうしてもあの人のしていることが許せない、だまっていられない」と考え自分は相手によって傷つ
けられ、害を受けたと思っている人が、その対応の仕方によっては自分を傷つけた人よりももっとその人に悪を行
うことになってしまうことがあるからです。「どんなにあの人がひどい人か」ということを無責任に他の人に話したり、
その人に冷淡な態度をとり続けることによって兄弟を教会の交わりや信仰から遠ざけてしまこともあります。また
自分自身を信仰の交わりから遠ざかることがあります。こうした不幸なトラブルは教会生活の中で意外に起こり
やすいものです。

今日イエス・キリストはここでわたしたちに信仰生活、また教会生活のためのルールを示してくださっています。

イエス様は、「もし誰かがあなたに対して罪を犯すなら行ってその人と二人だけのところで話しなさい」と教え
ておられます。

「行って」という言葉が大事だと思います。そこには問題を解決しよう。兄弟が間違った道から引き戻そうと
する心の姿勢があるのではないでしょうか。この人のしていることは、危険なことだ、滅びに繋がることだ、と考え
るならその人に忠告しなければなりません。あっちのほうが自分に悪いことをしたのだから、あっちの方から来るの
が筋じゃないか、あっちの方から誤りにくるべきだ、というのではありません。イエス・キリストは自分に対して悪を
行っているこの世にご自分方から来られたのです。おまえたちの方から来いとは言いませんでした。罪を犯してい
るわたしたちは自分の力で神のもとに立ち返ることができなかったからです。

行く、ということは自分自身を相手のために捧げている、ということです。イエス・キリストも言葉だけではなく、
ご自分を与えてくださることによってその愛を示してくださいました。

次にイエス様は二人だけの所でそれを話しなさい、と教えておられます。これは本当の事だからみんなに言
っても良いというのは間違いです。はじめから誰彼なく悪口をいうことはその人があなたにした悪を何倍にもして
仕返ししていることになります。

もし、そこで解決しないからといってあきらめないで、今度は別に一人、二人を加えて話しなさい。と言って
おられます。そのような段階を踏むようにイエス様は教えられています。ここには愛をもって忠告するとともに、愛
をもって相手を包む思いやりがあります。

教会は罪を暴きたて、責めるところではありません。罪という傷を責めるのではなく、包み、癒してゆくところ
なのです。

私はこのイエス様の教えを読むと思い出す聖書の箇所があります。それは創世記9章のノアの家族の話で
す。

ノアの洪水の後、方舟から下りて、ぶどう畑を作ったのですが、その時、ぶどう酒を作るようになり、ノアはそれ
を飲んで酔ってしまい、裸になってしまったのです。それは家族にも見られたくないノアの恥ずかしい姿です。それ
は見たノアの三人息子の内の末の子ハムは、お父さんのノアの裸を見て兄弟たちにそれを告げたのです。

ところがそれを聞いた二人の息子、セムとヤベテとは、お父さんに恥ずかしい思いをさせてはいけないと、二
人で後ろ向きにお父さんに近寄り、お父さんの裸を見ないようにして、着物をかけてあげたのです。

後で酔いがさめたノアは息子たちのしたことに気づいて、上の息子を祝福し、ハムを呪った、といことが書か
れています。そこには身内の恥をあらわにした人と、それを包んであげた人の違いが語られています。もしハムに
お父さんへの尊敬と愛情があればノアの恥を兄弟に告げることはなかったでしょう。形は親子であってもハムの心
はそうではなかったので。

ルターは彼の書いた創世記の解説の中で、「私たちも神の教会という天幕の中で、お互いの罪を覆いあわ
なければならない」と説明しています。

皆さんは自分の身内の恥が明らかにされることをいやがると思います。それは家族を愛しているからです。そ
して私たちもイエス・キリストの血によって結び合わされ、教会という神の家族の一員とされているのです。ですか
ら、兄弟の罪や恥に対して自分の身内のような愛情を接していくべきだと思うのです。そして、愛しているから、
どうにかしてその悪から立ち直ってほしいと願うのです。

コリント第1の手紙13章は有名な愛の賛歌ですが、その8節に愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべて
を望み、すべてに耐える」と書かれています。このすべてを「忍び」という言葉は、覆う、という意味です。それは
罪という傷をうやむやにすることではなく、包むことによって癒してあげようとする心なのです。

教会の交わりはこの世の交わりとは違うべきです。そこは罪を裁きあう場所ではなく、イエス・キリストの貴い
血をもって救ってくださったひとりひとりが悪から守られて神の道を歩むことができるようにお互いに仕え合う所なの
です。

イエス様は「あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくだ
さる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。
これは先に言われたように、二人だけで行って話しなさい、また二人または三人が行って話しなさい、という話し
合いの中にイエス様がおられ、そしてそこでの祈りを聞いてくださる。そこで罪を許し、兄弟が立ち直り、また、和
解する力が与えてくださる、ということです。

協力の協という字は十字架のもとで力を合わせる形をしています。人間の力だけではなく、イエス様の十字
架の赦しと恵みのもとで人が力を合わせることは本当の協力ではないでしょうか。でも、力を三つ書いて月の字
の上に乗せれば脅かすとか、おどす、と字になります。月へんは人間の体の場合、肉づきと言われ、肉の力を
表します。わたしたちはイエス様がいないところで、肉にもとづいて力を合わせてもそれは良いものにはなりません
。教会であっても、私たちがイエス様の十字架の無いところで人の善し悪しを言ったりするときは、それはどんな
に自分で正しいと思っていても人を脅す力になってしまいます。しかし私たちが十字架の愛を示されたイエス・キ
リストの名のもとに集まる時、キリストはそこにいてくださり、そこで祈るとき父なる神は喜んでその祈りを聞いてくだ
さいます。そして問題を解決するための知恵と力を与えてくださるのです。

ですからこれからも私たちはイエス様の十字架の赦しのもとで、兄弟を愛し、兄弟のために仕え、また祈る
群れになってゆきたいと思います。私たちはみな主がその命を捨ててまで私たちを愛してくださった、その尊い愛
を知っているのです。

<祈り>
主よ、あなたが尊い代価によって招かれた兄弟を大切にできますように。兄弟の愛をもって忠告し、また兄弟の
ために祈り合うことができますように、私たちの群れを導いてください。


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