人は、無意志の内に他人と比較しがちです。或いは、世間の幸せの尺度に合わせて自分と我が家
をその尺度に合わせようとする傾向があって、落ち込んだり、安堵したりします。
そおうした現実の只中で、主イエスは弟子教育をして行ったのでした。本日の聖書個所もその教育
の一端でありましょう。あらゆる場面で、誰が一番偉いのか!? 強いか?! 収入の保証はあるの
か。
17:22-23で、イエスは二回目の受難予告を弟子たちに告げます。それに続いて、18章は「天国でい
ちばん偉い者」は誰か、の主題が、取り上げられます。
「イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」4:17
「天の国は近づいた」はイエスの宣教の中心メッセージであったのですが、弟子集団は、相も変わら
ずに、「天の国」に於いても「だれが、いちばん偉いのか」に拘っていたのでした。つまりこの世を他人と
競いながら、走りぬいた延長線上に「天の国」があって、この地上で獲得した成果が「天の国」における
待遇に直結するのだから、この世の在り方を、どのように走って、実践すれば、有利な地位が与えられ
るのか、と言った考えからは、脱皮できないままに、気になっていたことを主イエスに尋ねたのだと思
われます。
井筒俊彦の言葉を借りて言うならば、「現実界的概念の解体と再構築」が未だ出来ていないまま
に、弟子たちは「現実界的概念」を抱いたままに「天の国」を想定して、主イエスに尋ねているのです。
そこでイエスは「一人の子供を呼び寄せて、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。
心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』 ここでは子
供に帰れとは言っておりません。「心を入れ替えよ」とは、子供は可愛いが、養い保護しなければな
い存在であり、親に頼るほかは生きて行けない子供をメタファ(譬え)として取り上げることによって、説
明の領域を超えて己の意識と価値観の転換を促しているのです。
※ここでの子供とは何歳でしょうか? 私の知見では第一次反抗期に入る前までの年齢ではないか推察されます。
邪気なく、自他文節前の、ひたすらな心根の児を指していると考えます。イエスはそうした文脈の中で「心を入れ替えて子供のように
ならなければ」と言ったのです。大人の社交では、本音と社交言語とは使い分けるものです。しかし、神のみ前に立つ者は心をまっすぐ
にして立つ者なのです・・・。
※詩編7:10
あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。
11:7 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
エレ 17:10
心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。
※
唯識学派の阿頼耶識の領域、 心理学者であり精神分析家・治療家であった ユング や フロイド
いわゆる、本物の宗教に於いては「現実界的概念の解体と再構築」が必ず求められて、且つ体験
するのものなのです。
そうした明確な視座を与えるために、主イエスは受難予告をしているのであります。即ち、ご自分の
死と復活を三度にわたって弟子たちに予告なさったのはそのためでございました。
ご自分は「過ぎ越しの子羊であって、流された子羊の血が人の命を生かすのである。救われたあなた
がたの命には私イエスが生き続けているのだ。」と。
さらに、旧約の子羊の犠牲の血による贖罪観を受け継ぎつつ、イエスの時に至って、主の復活の生
命へと我々は招かれている事の告知をなさっておられるのです。
イエスはご自分の受難予告を告げながら、ここで、弟子たちの覚悟と、「天の国」へと目覚めて、希望
を弟子集団が抱くことを熱心に願っておられたのだと言えます。
弟子集団及び、今日の我々が、教会と我々の人生が、空しく消滅する不安に囚われる時に、イエスが
予告し、現実化した「受難と復活」は人生に於ける大逆転をもたらすことを、如実に示してくれている
のです。
しかしながら、受難と復活の予告を聞いておりながら、処刑の当日、弟子たちは、イエスの十字架の
死に当面して、皆逃げ出したり、隠れたりしてしまっております。
このことの底流には、人間はこの地上においては「誕生と死」の限界的枠組みの中で生存している、と
言う「現実界的概念」から来ております。 人間は何時か死ぬのだ。其れで全てがお終になるのだ。再
びこの世に戻ってくることはない、と。
人間のあきらめと諦観によって人生を締めくくるほかはない事を露呈してしまっています。それは、「
現実界的概念の解体と再構築」は人間の力量だけでは至難の事であったことを表しています。
だからこそ、イエスは十字架の死後、三日目に復活したことは「死と復活」は一つの出来事として、告
げてきたのです。
イエスの受難の死は、現実として起こるのだけれど、必ず復活して弟子たちと会えることを三度も言い
続けてきたのでした。
ゴルゴだの丘での十字架刑は、その人の言葉と実践が徒労に終わったことを、衆人に見せ示すため
の処刑であったのでした。この処刑によって、この囚人の訴えと行動の万事が水泡に帰したのだ!!
となるはずの処刑であったのです。ところが三日目の早朝に主イエスの復活の出来事が婦人たちに
よって知らされて行ったのでした。
「これですべては徒労に終わったのだ!!」 為政者も弟子たちも、皆がそのように思っていたところ
に、復活の主が弟子体の中に立たれたのでした。こうした、驚きと疑いの中で、主の復活を弟子集団
はしっかりと受け止めて、信じ、宣教活動に出で発ってゆきました。
「現実界的概念の解体と再構築」がその後の、昇天とペンテコステ体験の中で弟子集団に力強く明
確に形成されて行ったと、言えましょう。
弟子集団の解体の危機に落とされていた最中で、主イエスがその中に立たれて、「平安あれ!!」と
祝福されたのでした。「ああ、これで終わりではないのだ!!」
主の復活を宣教することは、これで終わりではないのだ!! 確かな、その先が、主によって備えられ
てあるのだ!!
弟子集団は「十字架と復活」のメッセージを携えて、世界へと展開していったのでした。
先立つ主イエスが、その弟子たちのゆく先々で、聖霊とに共におられたのです。
そして今も、主イエスは聖霊と共に私どもの傍らにおられるのです。
祈りましょう。
戻る