2023年  9月 3日  聖霊降臨後第14主日

      聖書 :  エレミヤ書             16章 15節~21節
            詩篇                26編 1節~8節
            ローマの信徒への手紙     12章 9節~21節
            マタイよる福音書        16章 21節~28節

      説教 : 『 イエスの死と復活の予告 』
                    木下海龍牧師
      教団讃美歌 :  23、 501、 320、 515

イエス自身にとっても、ご自分の死と復活について語ることは、なかなか 気を遣うことではなかった
でしょうか。

聞き手のこれまでの考え方とその背景と生と死についての思索の深さ、その受容性などによって、さ
らに、死と復活を語る人との信頼度も大いに関係してくるからです。

 ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えていたにもかかわらず、ここで「主よ、とん
でもないことです。そんなことがあってはなりません。」
と言ってしまうのですから・・・。

 仮に自分の身近な血縁者が、「自分はもうじき死ぬのだが、言っておきたいことがあるのだけれど・・
・聴き取ってくれないか」と言い出したら、どれだけの人がその人と向き合って、その人の言葉を真剣に
聴いて上げられるでしょうか。「まあそんなことは言わないで・・・お父さんが行きたいと言っていたレスト
ランへ、みんなで一緒に行きましょう。」と言って、話を逸らす人も少なくはないはずです。

 振り返ってみて、両親との対話のなかで、聞き手の自分が、その時には分からなかった内容が、は
るか後になって、理解して腑に落ちる事として、己の内面に落ちてくることも少なくございません。幼い
ころに聞かされたことが、後になって、親の話しが腹の底から分かってくることがあります。

大人は時には、人生における云い遺したい話を、気負わずに話して置くことは、子供や孫への贈り
物になるのではないか、と思っております。老人はそのための場作りを気軽な雰囲気で持つのはいい
のではないでしょうか。(余談ですが)

 本日の聖書を見てみましょう。

21節の後半で「弟子たちに打ち明けはじめた。」とあります。「打ち明けはじめた」 これは、内輪に
弟子たちだけに示し始めた、との表現でした。是には誤解を恐れたためであったでしょう。噂が変に広
がれば、イエス様が綿密に計画されていた十字架刑を執行する日時が狂ってしまう危惧が実際に起こ
ってしまうからです。

磔刑と復活は決定的な時と場において起こるべきであったのだと、今、イエスをメシアと信じている私
にとっては、その時と場所が違えば、全く違った状況になる危惧を抱きます。おそらくこの危惧は、イエ
スご自身にも、あったのではないでしょうか。だから、先ずは内輪で話し始めたのです。
 

エルサレム入城と、十字架までの一週間を大まかにみてみましょう。

    ユダヤ暦ニサンの月の10日()の正午頃にエルサレム入場、
    エルサレムの内外でいろいろ事が数日間あって
    13日()の午後6時、13日から14日へと日付が変わって除酵祭が始まり、日が暮れて
弟子たちと過ぎ越しの食事が始まります。 弟子たちとの最後の晩餐になりました。晩餐後にオリ
ーブ山に向かいます。
 ➃ その道中、ゲッセマネの園で苦悩するイエスの祈りが父なる神にささげられます。
     そこに、ユダに案内された神殿兵士たちが来てイエスを捕縛しました。アンナスの審問→
カヤパ
     15日()の午前ピラトの審問。その日()の正午~3時頃にゴルゴだの刑場で息絶え
ます。
日が暮れる前、日付が替わる直前に遺体を墓に納めました。
 ⑦ 16日(土)は墓に番兵が置かれて警備に着きます。
 ⑧    17日()早朝、日の出の頃に、墓に向かったマリアたちは墓が空であると気付きます。
マグダラのマリアは帰り道に、復活のイエスに出会います。
 ⑨ 17日午後6時頃にイエスはエマオへの道で、二人の弟子にあって、食事を一緒にします。
 ⑩ 18日()の夜 エルサレムで閉じた部屋にいた弟子たちに現れます。

22節に、イエスから受難を打ち明けられたペテロは、イエスをわきに引き寄せて、イエスの受難に異
議をはさみます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。
神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「サタン、引き下がれ。」 はとても強い叱責ですね!!

なぜ? こんな叱り方をイエスはなさったのだろうか? と、以前からズーット思っておりました。

今回、学びの機会が与えられました。

22節のペテロの言葉を直訳すると「主よ、神の慈しみがあなたに。このことはあなたにありえませ
」となります。「主よ、神の慈しみがあなたに。」とは、慈しむ神がそのようなことを許しませんよう
に、の意味であり、そこから、「とんでもないことです」と訳されます。イエスをメシアと信ずるペテロは
、神の慈しみがイエスを守るから、死に至る受難はない、災いが来るはずがないと理解していたのです
。それで、イエスの受難予告に異議を唱えたのでした。だが、イエスご自身が志向するメシアは勝利に
満ちた栄光のメシアではございませんでした。人類救済のために十字架の受難へ向かう事でありまし
た。

ペテロの発言を聞いて、とっさに振り向いて「サタン、引き下がれ。」と言ったのは、荒野で悪魔の誘
惑があったときの悪魔の言葉と重なったからではないでしょうか(4:5-6)「悪魔は、イエスを神殿の屋根
の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(神の慈しみが、イエス、あなたを守
るから、飛び降りて見よ。と誘った。イエスはそのときの事をとっさに思い出して、振り返って、ペ
テロに「サタン、引き下がれ。」と宣言したのでしょう。

ペテロはイエスへの尊敬と善意からであったにせよ、イエスが目指すメシア像とは異なって、あくまでも
人間的な思いからのものであったのです。それゆえにイエスはペテロに「引き下がれ、(私の後ろに
退いて私に従え)と忠告なさったのでした。

ここのペテロとのやり取りから自分の心に去来することは、その時々にどちらの道を選んで、進むべ
きかと選ぶ場合があるのですが、その難しさ共に、開くべき鍵を得るためには、主の導きを祈らざるを
得ないのだと思いました。

われわれが人間的に理解しているレベルの中で、「神様はお恵み深くいらっしゃるのだから、そんな
ことは起こるはずはありませんよ」と慰める傾向が自分にはあります。そうした我々にかわって、ペテロ
が、イエスをいさめる言葉を出してくださったおかげで、この時のイエスが立っていた峻厳な立場を示さ
れ、イエスの口から、神様の大きなご計画を明言される機会を引き出してくれたのだ と。と有難く受け
取れる聖書の箇所だと思っております。  アーメン。

                                       戻る