主イエスはフィリポと出会い呼びかけられます、「わたしに従いなさい」と。そ
のフィリポがナタナエルと出会い呼びかけます。「わたしたちは、モーセが律法に
記し、預言者たちも書いている方に出会った。…」と。「出会う」という語はもと
もとは「見い出す・見つける」という意味です。この語はルカによる福音書15章の
中で8回用いられています。いなくなった一匹の羊を男が見い出す。なくした一枚
の銀貨を女が見つける。放蕩息子が父親に見い出される、「死んでいたのに生き返
り、いなくなっていたのに見つかった」と。ひとりの人が神様の御許に帰って来る
ことに対する神様の深い愛と大きな喜びのことが描かれています。
主イエスはフィリポを見い出します。慈しみ深い神様を映し出す主イエスはフィ
リピをじっと見つめ、彼の心の奥底を人生の悲哀や苦労を見通されたでしょう。主
イエスに「わたしに従いなさい(同行しなさい)」と呼びかけられます。なぜ彼が
主に従って行ったかについて福音書は詳しく書きません。
フィリポは自分の存在を大切なものとしてじっと見つめるその方のまなざしを感
じ取ったのではないかと思います。社会には昔も今も、能力や地位などによって人
に優劣をつけるような冷たさがあります。力の強さ、富の多さ、影響力の大きさが
ものをいう社会の姿があります。高い地位にない人の存在は小さなものと見られま
す。あなたの代わりはいくらでもいるというような声が氾濫しているように思いま
す。しかし主イエスのまなざしは語ったのではないでしょうか。あなたのほかにあ
なたはいない、あなたの存在はかけがえがない、と。慈しみ深い神様の温かいまな
ざしを主イエスを通してフィリポは感じ取ったのではないかと思います。主イエス
との出会いは、神様に愛されている本当の自分との出会いだったと思います。神様
がこの私を愛しておられる、神様の目に私は極めて尊い存在として見られていると
いうまことの事をフィリポは主イエスによって示されたのだと思います。彼は見い
出され、本当の自分を見い出しました。そして「わたしに従いなさい」という招き
に応え、その道を歩み出したのです。
彼はナタナエルを見い出す者へと神様から促されます。福音というまことは共に
あずかるよう共有されることを求め、働きます。主イエスを通して根源の言・いの
ちの輝きを知った彼はナタナエルにもその神様のまことを見い出していたでしょう
。フィリポは自分たちが聖書の指し示す救い主に出会ったことを伝え、「来て、見
なさい」と呼びかけます。その呼びかけにナタナエルは主イエスのもとに歩み出す
者とされます。その彼を主イエスはじっと見て、「見なさい。まことのイスラエル
人だ。この人には偽りがない。」と彼のまことを見抜かれました。どうして主イエ
スがナタナエルにまこと・真心を見たのかということを、彼がいちじくの木の下に
いるのを主が見ておられたということから考えてみたいと思います。
いちじくは年に2回実をつけるようです。神様の民にとっていちじくの実は貴重な
食物だったし、薬としても用いられるものでした。大きく葉を茂らせると暑さの折
には涼を得ることができ、その下に座るということには御言葉を聞くこと・学ぶこ
とをも意味したようです。聖書を説き明かす先生が座り、その周りに弟子たちが座
して、神様の御言葉を聞きました。神様に依り頼みつつ歩んでいるナタナエルを主
イエスは見ておられたのです。
「いちじくの木」について、ミカ書4章3節から5節にはこういう言葉があります
。「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。 彼
らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上
げず もはや戦うことを学ばない。 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじ
くの木の下に座り 脅かすものは何もないと 万軍の主の口が語られた。 どの民
もおのおの、自分の神の名によって歩む。 我々は、とこしえに 我らの神、主の
御名によって歩む」。いちじくの木の下に座ることは、神様と共にある安息と平安
・平和の象徴として描かれています。そしてその神様の御許で生き、歩んでゆくこ
と、神様の御許こそが幸福の場であることが表明されています。そして罪の赦しも
また慈しみ深い神様の御許にあります。
主イエスは、ナタナエルが神様に依り頼みつつ歩んでいることに神様の民のまこ
との姿を見られました。恵み深い神様に応答し従わせていただいている自分を見て
いてくださる、知っていてくださっている神様に、主イエスを通して出会わせてい
ただいたのです。喜びの時もありますが生きていくことの大変さの中で、神様が私
を知っていてくださるのを見い出したのです。
島崎光正さんという詩人の『悲しみ多き日にこそ』という詩をご一緒に聞きたい
と思います。
“ 悲しみ苦しみ多き今こそ 私は主に頼った 暗い真夜中を 主は光の矢となり
て導きたもうた 眠りについた家々の窓は固く閉じ 囀り(さえずり)うたう小
鳥もなく 私に 何の見えるものがあったろう 何の聞こえるものがあろう 死の
沼は不気味に湛え、笛をひそめた葦 ただ 主が私を知りたもうた 罪ある私の魂
も おぼろにその在りかを知った たとえ道は遠けれど 常に傍らにましますこと
を 油の尽きない灯となりて たとえ 闇ふかくとも 眠れない額の上に 消え
ない星を置きたもうた もしも薄絹(うすぎぬ)のように暁を迎える折あらば
私は多分気づくにちがいない 悲しみ多き日にこそ わが幸、わがよろこびの溢れ
たことを 主と交わりの聖なる時を持ち得たことを ”
島崎さんはご自身の人生を振り返りながらこの詩を書いておられます。体の痛み
を負いつつ、周囲からの冷たい視線を受けて生活しなければならなかったあの時、
「悲しみ苦しみ多き今こそ 私は主に頼った」ことを見つめています。悲しみ苦し
み多き「今こそ」、私は主に頼った、依り頼んだ。最も辛い時であったけれどもそ
の時こそ、自分は主に依り頼むということへと導かれた。何もない平穏な時には「
ただ 主が私を知りたもう」てくださることを忘れてしまいがちだけれども、悲し
み苦しみ多きその時こそ、私が依り頼むようにと神様は私を呼び、御許に引き寄せ
てくださったのだ。そこにこそ主と交わりの聖なる時を持ち得た、私の幸、よろこ
びは溢れていたのだ、と共にいてくださった主を見い出されています。
神様が、主イエス・キリストが慈しみのまなざしをもってこの私を見い出し、見
ていてくださることをそれぞれの主イエスとの出会いやこれまでの歩みの中で呼び
かけ共に歩んで行こうと招いてくださった日々のことをそれぞれに思い起こしたい
と思います。そして、神様に見出されているほかならぬこの私、私をかけがえのな
い神様のこどもとして見ていてくださる神様にある私を、そして主に知られている
私のことを覚えたいと思います。生ける主がこれまで守り導いてくださいました。
これからもあなたを知り給い守られます。「わたしに従いなさい」との呼びかけに
依り頼む者とさせていただきましょう。