2024年 1月 21日 顕現後第3主日(緑)
聖書 : ヨナ書 3章1節~5節、10節
詩篇 62編 6節~13節
コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章 29節~31節
マルコよる福音書 1章 14節~20節
説教 : 『 何のために呼び出されるか 』
木下海龍牧師
教団讃美歌 : 411、 326、 、
私自身も、少年期から成人にかけて、なぜ今の時代の、この場所に生きているのだろうか。といった
問いを持ち、またそのことに、理屈を超えた不思議さを感じたりすることがありました。
今こうして生きているのは、あなたに出会うためだと告白したり、嬰児を抱いて、わたしを親に選んで
生まれて来てくれてきたありがとう、わたしはあなたに出会うために、先に生まれて来たんだわと。
理屈を超えて、言ったりします。そう告白することが一番スッキリと自分が納得できると思えることもあ
るものです。我々は、すべてが説明しきれないけれど、そう言った世界に生きているのだ、と思えるの
です。
イエスに呼びだれた最初の弟子たち四人はシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその
兄弟ヨハネは、どのような思いを抱いて、イエスに従ったのでしょうか。最初の4人の使徒たちみんな
が、同じ思いではなかったはずですし、ある面では大きく異なり、ある面では共通した思いがあったの
ではないか、と思います。
実際に四福音書を読み比べて見ますと、主に召される課程と順序などに表現の違いに気付きます。
ルカ福音書では、
5:1-11 ここで、決定的であったのは、その朝は、あいにく不漁であって、漁をあ
きらめていたのだが、イエスに言われるままに、半信半疑で網を打て見ると、おびただしい魚が網にか
かったことから、シモンペテロは
「主よ、私から離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白
した経緯が述べられています。
ヨハネ福音書
1:35-42では、バプテスマのヨハネの弟子であった
アンデレがイエスのところで一晩泊
まってイエスの話を聞いた後に、先ず自分の
兄弟シモンに会って、
「わたしたちはメシアに出会った
」といった。そしてシモンをイエスのところに連れて行った。そこでイエスは彼を
見つめて、
「あなたは
ヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」と言われた。と記述されています。
そうした記述の違いがあったにも関わらず、イエスに従い、イエスが処刑された後には、信仰者の群
れを整え、導いていったのでした。そして、イエスの教えに従い・信じた故に、使徒たち全員が殉教して
いったほどに、イエスの呼び出しに、忠実であり、その道に使命感を抱き、この道に生きてゆくことが自
分に与えられた使命であり命であり、人生そのものであると固く確信して行かれたのだと思われます。
最初の弟子四人は漁師でありました。当時は普通に漁師として生涯にわたって働き、子息を遺して
生涯を終えてゆきます。それが普通であり、また立派であると言えます。
イエスが弟子を呼び出し、それを受けた弟子の側では、どのような変化が彼らの中で起っていったの
でしょうか。いろいろと個人差はあったでしょうが、呼び出しを受ける弟子の側の主体的な自己決定が
あった事は、一個の人間としては、当然にあったと考えられます。
イエスに従って歩む道が、あの道よりも、この道の方が優れているからと考えて、選択したのではなく
て、すなわち相対的な選択ではなくて、自分にはこの道しかないのだ。これが歩むべき人間として真実
な道であるのだ、と、本人自身の総体として、決定できたのは、何であったのだろうか。と、この聖書個
所を読むと思いめぐらしたりもします。
個人の物語には時があります。世の中の時の動きと本人自身の置かれた状況と成熟過程が絡まっ
てくるものです。バプテスマのヨハネが捕らえられ、彼のの命が危機に至った情報が巷に満ちあふれ
た時、イエスは緊迫した時代空気の中に、立ちあがって
「神の福音を」宣べ伝え始めたのでした。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。
この宣教活動の最初の段階で、四人の弟子を召し出したのでした。
イエスの召し出しは、神は預言者を召し出すときのように、見つめる眼差しと言葉による召し出しであ
りました。この言葉には人を従わせる不思議な力がこもっていました。それがイエスと弟子の関係をき
わめた特殊なものにしているのです。外見は人間であるイエスが、シモンとアンデレが湖で網を打って
いるのをご覧になった。それは同時に、神がこの二人を見て選んだ、という選びの意味とが重なってい
るのです。イエスの弟子には、自らイエスを選ぶ暇もなく、一方的にイエスが主導権を持って弟子を召
し出しております。
さらに、この二組の兄弟は、共通しているのは、「捨てた」という行動決定でありました。
この世を生きてゆくための手段としてのこの世の仕事を捨てたのです。
尊敬して傍らにいて親に仕えるべきである、とする世の一般的義務感を捨てたのです。個人的な思
いでは老いて行く父親のことが心配にならなかったはずはありません。それでもイエスの招きに従った
のです。おそらく、仏教が伝達されたころに、老いた親を捨てて、仏門に入る決心をした人の決断と悩
みの物語が伝わっています。
最初の4人の弟子もそうした中で、「捨て」て、そして「神の国」を宣べ伝える役務を担ってゆくことにな
るのです。
弟子たちは、自らイエスが宣べ伝えた
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じな
さい」のみ言葉に、生涯ににわたって対峙したはずであります。そして自分なりに、イエスの言葉を
生き始めたのです。それが「神の国」到来を信じて生きる事であったからです。おそらく、最初はスッキ
リとは行かず、ちぐはぐな面もあったとしても、最後はイエスと同じようにすべての弟子が、圧制者の脅
しに屈することなく、イエスの十字架と復活をはばかることなく世に宣べ伝えて、殉教して行ったのでし
た。
その死が殉教であれ、自然死であったとしても、イエスの十字架と復活を福音として伝えることが、イ
エスに従う事であり、神の国の到来を身近に信じて生きる生き方であったからであります。
呼び出す前に、イエスは、はじめ弟子たちをじっとご覧になっておられたのです。彼らの強さも弱さも
、秀でたところも幾つかの短所も十分に見極めたうえで、呼び出されたのでした。後に、ペテロが怖くな
って思わずイエスを三度も否むことがある事もおり組み済みであったのです。召し出すとは、そういうも
のなのではないでしょうか。
召された者は、己の日々の務めが完全でないことは自身が十分に承知の上で、宣教活動の道筋に
立ち続けるのです。最終的には個の存在は究極なるお方の呼び出しに応答する中で、個は個でありな
がら、超個(イエス)の生きた生き方を人間である個として歩み続けるのです。 いつも上手くいくわけで
はありません。剣を天に向かって振るっているようなものです。自分の剣が天に届く届かないは問題で
はないのです。 それが召し出された者の用(ゆう)としての日々に行うのが弟子の実践なのです。
上手くゆかないから、と、途中で断念する人もいますが、ある意味で、本当の召し出したお方に出会
っていないからかもしれません。 じぶんには完全に出来る力量があるから召されたのでありません。
まずは召し出しがあって、弟子たちは弱く欠けがあるにもかかわらず、全存在でもって応答したのでし
た。 上手くゆかないことがあっても、この道を他にしては、超個であるイエスに呼び出された個の自分
が生きる真実な道は他にはないからであります。 広く考えれば、それが教会の代議員・役員さんであ
れ、
SCの先生であれ、様々な担当係りであっても、皆そうなのだと思います。
祈りましょう。
主よ、あなたが呼び出された意味と覚悟を私どもに悟らせください。
私共、一人一人の生涯が呼びさされた道を歩み通せますように、誘惑から守ってください。
主よ、あなた様のご栄光を、わたしどもの教会が顕すことができますように導いてください。主イエスの
御名によって、アーメン。
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