2024年  1月 28日  顕現後第4主日(緑)

      聖書 :  申命記               18章 15節~20節
            詩篇               111編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ   8章 1節~13節
            マルコよる福音書        1章 21節~28節

      説教 : 『 悪霊の追放 』
                   信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  49、 288、 238、 285

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたイエス・キリストは、初めに弟子たちを召し、彼らと共にその力ある働きをガリラ
ヤの町から始めました。 キリストは個人の家でも、屋外でも説教をし、いやしの働きをなさいました。 しかし、安息日
にはユダヤ人のよき習慣に従って会堂に入り、そこで御言葉を語られたのです。

会堂に集まる習慣は、ユダヤ人がバビロンの捕囚となって神殿のあるエルサレムから離れていたときに作られた、と
言われます。 そこでは神殿のように犠牲は捧げられませんでしたが、聖書が読まれ、律法の専門家による解説がなさ
れていました。

イスラエル人の宗教生活が年に数回の祭りに参加することだけでなく、毎週の集まりで神の言葉を聞いたことは良
い習慣だといえます。 そしてこの習慣はキリスト教にも受け継がれることになります。 安息日毎に会堂で教えられたイ
エス・キリストは
「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ 1
8:20)
と約束してくださり、今も教会の中にやって来られ、そこで語っておられ、また御業を行われるのです。 わたした
ちはクリスチャンの集まりの中でイエス・キリストに会うことができるのです。

しかし、会堂でのイエスは聖書の解説をする学者として語られたのではありません。 神の権威をもって語られまし
た。 「権威」
とは 「能力」 「力」 もあらわす言葉です。 イエス・キリストの言葉には権威があり、力があります。 
私たちは教会に神の言葉を聞きに集まりますが、それは牧師が行う聖書の解釈を聞くのではありません。 今もわたし
たちの中で力をもって語られるキリストの御言葉を受けるのです。 御言葉を語る者も聞く者もそのことを心しなければな
りません。

イエスが御言葉を語っていた会衆の中に、悪霊に取りつかれていた人がいました。 その人は 「ナザレのイエス・キリ
スト、かまわないでくれ。 我々を滅ぼしに来たのか。 正体はわかっている。 神の聖者だ。」
と叫びました。 聖書の
中には悪霊に取りつかれた人の話がよく出て来ます。 キリストはこれらの霊を追い出しました。 イエスが悪霊を追い出
したことは神の支配がイエスにおいてやってきたことのしるしでした。 それまでは悪霊を追い出すことは人間の力によって
は不可能だったのです。

悪霊は悪魔の支配のもとで働く霊的な存在だと言われています。 それは人間の心と体を占領し、支配し、その
人の人間を破壊してしまいます。 取りつく、というのは
「ポゼス」 という英語が表すように、所有し、占領する、というこ
とです。 その人のもともとの人格や意志を支配してしまうのです。 聖霊が人間に宿るときには、悪霊のような宿り方は
しません。 その人のもともとの人格や意志を見えなくするようなことはされないのです。 聖霊はその人の意志に応じて
やって来られ、その人の内に住み、その人と交わりを持たれるのです。 しかし、悪霊は人間を非人間化し、その人の意
志を虜にし、自分の思いのままにその人を引きずり、本人や周囲の人を傷つけるのです。 悪霊のこのような働きは決し
て過去のものではなく、現代にもなお働き続けています。

第1に悪霊は人間を悪事に駆り立てます。 冷静に考えれば正しくないことであり、自分や他人を傷つけることが
分かっているのに、犯罪や悪習慣に人を引きずり込むのです。  また悪霊は人を偶像の奴隷にします。 今日の使徒
書の中に偶像というものは本当は存在しない、本当の神様は唯一だ、と書かれています。 でも同じ第1コリント10章
では、その偶像の背後に、人々を惑わしている悪霊がいるのだ、ということを書いています。(第1コリント10:20)。 神
の似姿に作られた人間が、被造物に頭を下げているのは、自分自身を辱めることであり、本当の神様から離れてしまう
ことですが、それは悪霊の働きによるものだというのです。 また、悪霊は時にはオウム真理教のような恐ろしい事件を引
き起こします。 約30年前に起こった事件はまさに悪霊によるものではないでしょうか。 さらに悪霊はキリスト教の名を
名乗る間違った教えによって人を捕えます。 聖書を偽って教える異端のグループに入ると、組織の奴隷になって疲れ
果てるまで働かされます。 そのように努力することで自分は人格的に向上したと思い込みますが、実際は高慢になり、
心の平安も喜びも愛もなくしてゆきます。

また悪霊は時代精神の中にも働きます。 ドストエフスキーが 「悪霊」 の中で描いているような無神論的セクトの
中にも働きますし、またファシズムの中にも働きます。 現代では度が過ぎた快楽の追求へと人々を駆り立て、人間性
を蝕んでいます。

パウロは、後の日になると人々は悪霊の働きに心を奪われる、と書かれています。 ですから悪霊の働きを決して
過去のものと侮ってはならないのです。 悪霊とその悪霊を用いて働く悪魔の最終的な目的は人間を自分の支配下に
置き、神を嫌悪させ、人間を滅ぼすことです。
イエス・キリストが悪霊を追い出されたのは、やがて悪魔のもとにある人
々を解放することの前触れでありました。 悪の力に対抗することは人間の意志の力では不可能です。 愚かな偶像を
拝んだり、いかがわしいカルトにはまったり、快楽に溺れたりしている人々は決して教育の低い人々ではありません。

霊の力から解放されるためには知性や人間の意志の力では不可能なのです。 イエス・キリストの力ある御言葉だけが
悪霊を追放します。 そして私たちはこのキリストの御言葉をあずかっています。 神の国はイエス・キリストによってここに
来ている。 イエス・キリストは今も生きて我々と共におられる。 誰もキリストが持っておられる神の力に逆らうことはでき
ない。 そのように私たちは宣言するのです。 しかし、そのためには私たちがまず、キリストの御言葉によって常に悪霊の
力から解放され続けなければなりません。

今日の福音書では、神の御言葉が語られるその会堂の中に悪霊に取りつかれた人がいました。 私たちも、今の
教会でキリストの御言葉を聞き、それを心に受け入れ、悪霊の力から解放され、クリスチャンとしての自由を取り戻さな
ければなりません。 そうでなければこの世にある御言葉を語ることはできないからです。
宣教のために良く引用される
聖句があります。「御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。」
という聖句です。 パウロがテモテに
命じている言葉です。 イエス・キリストの教えをたゆまず宣べ伝えなさい、という教えです。
私たちはこのパウロのテモテ
に対する命令を、教会の外に向かって宣教することだととらえがちですが、パウロは教会の中でも御言葉を語り続けなさ
い、と言っているのです。 クリスチャンたちに、主とその偉大な力によって強くなりなさい、と言っているのです。 キリストの
御言葉によって私たちがまず悪の霊の力から解放され、この世の中に出て行って、人々を虜にしている悪の力を見抜き
、対抗して行くのです。

悪の力と戦う力はクリスチャンだけが持っているものですし、私たちの周りの世界はその神の力を必要としているので
す。 どうかイエス様に強められて、その御言葉で私たちの魂を守り、また他の人々の魂を解放する武器とすることが出
来るような、そのようなクリスチャンとなってゆきましょう。

お祈りいたします。

神さま。 私たちの周りには、あなたに敵対し、人間を虜にする悪の霊、汚れた霊が働いています。 どうか私たちを守り
、支え、あなたの支配の内に生き、またあなたに支配に仕える者としてください。アーメン    

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