2024年 10月 13日 聖霊降臨後第21主日(緑)
聖書 : アモス書 5章6節~7節、10節~15節
詩篇 90編 12節~17節
ヘブライ人への手紙 4章 12節~17節
マルコによる福音書 10章 17節~31節
説教 : 『 永遠の命 』
信徒のための説教手引き 信徒代読
教団讃美歌 : 23、 243、 249、 495
私達は、物を買うにしても、保険に入るにしても、出来るだけ、沢山のものによって安心を得ようとすることが
あります。もちろん、保険などに関しては必要があるから色々なところにも入ります。しかし、もしも私達が神様
から救いを得るために、また、罪の許しを頂くために、あれもこれもと手を出していったらどうなるでしょうか。
沢山の安心を得ようとしたとき、私たちの心はかえって不安になっていくかもしれません。今日の聖書の箇所
には、救いを得るために必死で外堀を固めようとした人と、これに答えられたイエスの言葉が記されています。
事の発端は、沢山の財産を持つ一人の男がイエス様のもとに駆け寄ったことから始まりました。イエス様のも
とに駆け寄ってきてその足下にひざまずいた、と言いますから、その熱心さ、謙虚さ、また誠実さが伺えます。
殺すな、姦涯するなと言った神様の掟を行いなさい、と書われた彼は、そういったことは子供の頃から守って
います、と答えます。
彼の態度の一つ一つから考えて、嘘ではないと思います。彼はおそらく、本当に真面目な人であったと思い
ます。けれども、世間では一応悪い人とは思われていない。でも、天にいらっしゃる神様の目から見て、本当に
自分が、救いをいただけるほどのものなのか。おそらく、誠実に生きている人であればこそ、このような疑間にぶつ
かるのではないかと思います。
イエス様は彼に持っているものをすべて売り払い、貧しい者に施しなさい、と言われます。彼は捨ててしまう
にはあまりにも多くの財産を持っていたためにこのイエス様の答えに気を落とし、立ち去ってしまいます。
さて、ここで考えたいのは、一体ここでいわれるように持っているものをすべて売り払って、・・・ある程度 とか、
何分の一とかではなく、・・・すべてを売り払う。しかも、死んだ後の遺産ということでなく、生きている今、それを
行う。そんな話は、滅多に言われるものではないと思います。現実の社会の中でも、沢山の献金や寄付をなさ
る方はいらっしゃいますが、全部売り払って、貧しい人に捧げた、そんな人の話は聞いたことがありません。
それに、そもそもこのことが永遠の命の条件であるというのなら、永遠の命をどうしたら得られるかと、尋ねられ
たときに、すぐにこう答えてもよかったはずです。しかしイエス様はまず、殺すな、姦涯するな、と言った教えを示
されました。それに対して、この富める人が、そういったことは、子供の頃から守っております、と答えたのを見て、
そこで初めて、イエス様はすべてを売り払いなさい、と言われたのでした。
こう考えて参りますと、どうやら、イエス様のこの答えは、文字通りに受け止めるものではないと言うことが分か
ります。イエス様は、弟子たちに向かって金持ちが神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい、と言
います。言うまでもなく、それは不可能だといっているのです。そして、突き詰めてみると、ここで言われていること
はたくさんの財産をもっていようと、いまいと、どんな人にとっても、神の国にはいるのは、不可能だ、ということだと
思います。だからこそ、そして、お金を持っているわけでもない弟子たちが、それでは一体誰が神の国にはいるの
は、と言い合ったのです。さらに、そのことではっきりとさせるのが、27節の人間に出来ることではなく、神様には
出来る。ということです。つまり、そもそも人には永遠の命を得る、救いを神様からいただく、ということが出来な
い、ということです。
初めに登場した財産持ちの男が、理解していなかったことも、ここにあります。彼は永遠の命を得るためにど
んな努力をすればいいのか、と問う。言い換えれば、それは勝ち取るものである、と考えていた。そのところに大
きな過ちがあったということです。
カルトとか新興宗教と言われるところで、良く聞くのは、たとえば、ここに出てくる財産持ちで、真面目な人を
見ると、あなたのように財産をもっているなら、これくらいは寄付しなさい、と極めて現実的なところを言います。
そして、これこれこんな修行をしなさいとか、現実的なところで修行させます。しかし、実のところ、どこにもゴール
はないのです。やれと言われたことは、どこまでもやる、払えと言われたお金は払える範囲で払う。それで、何と
か、安心と満足を得ようとします。
何の満足、何の安心かと言えば、永遠の命をこれで得られるという、ことに関してです。しかし、やればやる
ほどに、不安が増大していくのです。だから、どこまでもお布施する、どこまでも修行する。そのお布施の金額の
多さ、修行や奉仕に対する並外れた熱心さには、とりもなおさず、裁きや、救いに対する、不安そのものの大
きさをあらわしているのではないでしょうか。
そこで、イエス様が言われた、持っているものを捨てて、私に従え、と言われた言葉が響いてきます。
私たちに出来ることは何か、それは、この命を神様にゆだねるということです。私たちが命をこの手に入れると
いうことではなく、命を与える主なる方の御手に、この命を委ねるということなのです。それが永遠の命です。そ
れが救いです。
何としても、この手で勝ち取る、そのためにあれもする、これもする、こう考えているところに、救いの喜びも、
平安も存在しないのです。
しかし、全能にして、憐みに満ちた、神様がこの身を最もよい形でお導きくださる、こう考えた時に、平安が
訪れるのです
そして、イエスは、実にこのような信頼の中に生きよ、あなたのすべてをただ主に委ねて生きよ、と書われたの
です。今日の箇所で、何とか、命を得ようと努める、この富める人をイエス様はバカにしたのでもなければ、責め
たのでもなく、ただ、彼を慈しんで見つめられた、と言うことが書かれています。そしてまた、このやり取りに慌てる
弟子たちを見回し、そして、見つめておられた、と言うことが書かれています。
私たちは、見えざるものを信じることが出来ず、見えるものに振り回されては、不安を抱えて生きています。
そのような私たちを、主は、お怒りになるのでもなく、見捨てるのでもなく、いつも、憐れみを持って、見つめてお
られる、と言うことを表しているかのようです。神の愛は永遠なのです。尽きることはないのです。主の御手はい
つも私たちを支えています。すべてを御手に委ねて歩いていきましょう。
● 祈 り
全能の神様、私たちに必要なものをすべて備えて下さり、感謝します。私たちに、いつも変わらぬ眼差 しを
注いで下さり、感謝します。時に、私たちはこのあなたのご配慮と眼差しを忘れる者です。どうか、いかなる時に
も、あなたへの確かな信仰をもって、歩いていくことが出来ますように。主の御名によって祈ります。アーメン
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