2024年  10月 27日  宗教改革主日(赤)

      聖書 :  エレミヤ書            31章 31節~34節
            詩篇               46編
            ローマの信徒への手紙     3章 19節~28節
            ヨハネによる福音書      8章 31節~36節

      説教 : 『 本当に自由になる 』
                    信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  298、 453、 245、 374

10月31日という日は、西方のキリスト教に 「ローマ・カトリック教会」 「プロテスタント教会」 という、ふた
つの大きな流れを作ることになった
「宗教改革」 を記念する日です。

1517年10月31日。 実にほぼ500年前の出来事であります。 私たちのこのルーテル教会の礎を築い
たマルチン・ルターが、時のローマ教皇レオ10世率いる巨大な権力構造から生まれたいくつかの誤りを正すため
に、10月31日にウィッテンベルグの教会の扉に
「95箇条の提題」 を張り出したのが、宗教改革の発端でし
た。

今日、ちまたで 「10月31日」 といえば、「ハロウィンのお祭り」 でありますが、「宗教改革」 「ハロウィン
は、実はあながち無関係とは言えないのです。 「ハロウィン」 は、この世を去ったすべての信仰者を記念する
、いわばキリスト教の 「お盆」 とも言うべき 「全聖徒の日」 の前夜祭という位置づけになります。 マルチン・ルタ
ーは、「人は信仰と、それを支える神様の愛とによって救われるのであり、寄付金や献金によって救われるので
はない」 という 「信仰義認」 の教理を中核とした主張を、宗教改革によって表明したわけですが、その裏には
、「死んでいった家族が救われるために」 という誘い文句で寄付金を募っていた、当時のローマ・カトリック教会
の腐敗ぶりというものがありました。

「キリスト教のお盆」 とも言うべき 「全聖徒の日」 は、11月1日ですから、ルターとしては何とかしてそのよう
な 「人心をあおる募金運動」 を阻止して、「全聖徒の日」 を、金と欲にまみれた日ではなくて、本当の意味で
「生きている」 私たちも、「先に死んでいった」 友人家族も、天と地の境を超えて共に神様を賛美し、感謝を
捧げる日としなくてはならないと考えたのです。

時は迫っていました。 明日は 「全聖徒の日」。 その前日の今日、これが10月の31日のことですが、今
日の内にみんなにこのことを知らせよう。 この固い決意のもとに、ルターは 「死刑」 も 「破門」 も承知の上で、
宗教改革の口火を切ったわけです。

16世紀当時のドイツに、現在のような 「ハロウィン」 の習慣はなかったと思われますが、11月1日の前日
に、宗教改革の口火を切らなければならなかった理由がそこにあります。 1999年10月31日に、ローマ・カ
トリック教会とルーテル教会との和解を宣言した 「義認の教理についての共同声明」 が出され、ルターの時代
に起こった、ローマ・カトリック教会と最大のプロテスタント教会であるルーテル教会との 「断罪と破門宣告」 はほ
とんど取り消されました。 つまり現在では、もはやルターが指摘したような腐敗は見当たらないということです。
今後は、プロテスタント教会もローマ・カトリック教会も、聖書に示された 「キリストの福音」 を宣教するという点
で、協力関係を築くことが求められるでしょう。

さて、本日与えられた福音書の日課は、イエス様が、初期のユダヤ人キリスト教徒に向かって語られた言葉
を伝えています。 もともと正統的なユダヤ教徒でありながら、イエス様の言葉に動かされ、自分たちが持ってき
た 「ユダヤ教の教え」 と 「イエス様の新しい教え」  を調和させようとした、初期のユダヤ人キリスト教徒。 彼ら
は 「ユダヤ教キリスト派」 ともいえるグループを形成しておりました。 彼らは 「キリスト教の聖書理解」 に感服
し、同意を表明しました。 ところが、次第にイエス様に対立する勢力、すなわちユダヤ人の指導者層の人々
の力が強くなるのを見ると、自己保身のために、キリストを批判する者たちも現れ始めます。 なによりも、そん
な人たちの目を曇らせる原因となったことは 「自分たちは選ばれた民族、ユダヤ人である」 という思い上がった
選民意識だったでしょう。 彼らはまだ、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、誰でもが 「自分中心の醜い
心」 を持っており、誰でもが 「他人を傷つける罪」 から自由ではないのだということを自覚しなかったのです。

イエス様はこの人たちに向かって語りかけられました。 《わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に
わたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。》

「真理」 とは、ひと言で言えば 「神様の愛」 という、私たちの人生を支える土台があるということです。 この
ことを知らせるキリストの言葉にとどまるならば、誰でも本当に 「キリストの弟子」 なのだと言われています。 そ
して、その 「真理」 を知るならば、私たちは、私たちのこの人生を 「みすぼらしく」 「虚無的に」「すっかり失望し
た」 人生に変えてしまおうとする 「あらゆる力」 から 「自由」 になることができると約束してくださるのです。 とこ
ろが、キリストのこの言葉を聞いたユダヤ人たちは、大きな思い違いをしていることが分かってきます。 彼らは、「
全ての人に向けられた神様の愛」 ではなくて、自分たちだけに与えられた 「選ばれた民イスラエル」 としての 「
選民意識」 を土台として自信満々に反論しています。

「私たちはアブラハムの子孫です。 今までだれかの奴隷になったことはありません。 『あなたたちは自由にな
る』 とどうして言われるのですか。」 「自分たちは、選ばれた民ユダヤ人だ。 昔から自由な民族だったのだ」 と
、彼らは反論します。 まるで、戦前の日本人が 「神風の吹く、神国日本の民である」 と胸を張っていたのと
同じ調子だったのではないでしょうか。 「集団の一員」 であるということに隠れて、自分自身の本当の姿を見
てはいない。

しかし、私たちは自分自身を冷静に見つめれば見つめるほど、自分がいかに自己中心的で、他人の痛み
が分からないという意味での 「罪深い」 人間であるかを知ることになります。 それと同時に、自分自身の存在
価値を確かにするものなど、ひとつも持ち合わせてはいないということを、知ることになるはずです。

そのような内容をイエス様は 「だれでも罪の奴隷である」 と指摘されます。 その上で今一度 「キリストの約
束」 を語られます。 「もし、わたしがあなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

私たちは、神様の愛の上に生きることをゆるされている。 私たちは 「神様」 から 「自由に生きて良い」 とい
う言葉を聞くことがゆるされている。 「真理はあなたたちを自由にする」 のですから。

宗教改革を記念するこの日、ルターが再発見した 「真理」、つまり 「信仰によって人は義とされる」 「神様
の愛だけが、私たちに人生の土台を与えてくれる」 ということを 「喜ばしい知らせ」 として受け取りましょう。

お祈りいたします。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真
理はあなたたちを自由にする。」

父なる神様。 私たちが 「人生の真実」、「真理」 を知ることができ、私たちのこの人生をみすぼらしく、虚
無的に、失望に満ちた人生に変えてしまおうとするあらゆる力から自由になることができるようにお導き下さい。
 私たちの主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン


                                   
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