2024年 10月 6日 聖霊降臨後第20主日(緑)
聖書 : 創世記 2章 18節~24節
詩篇 8編
ヘブライ人への手紙 1章1節~4節、2章5節~12節
マルコによる福音書 10章 2節~16節
説教 : 『 標準文法と、わたしの物語 』
木下海龍牧師
教会讃美歌 : 151、 352、 416、 424
新約聖書学会で「標準文法」と言われている事柄の内容は、イエスの宣教・十字架の死・復活・昇
天後に、聖霊降臨体験をした最初期の弟子たちがイエスの死後数十年後になって、まだ生存していた
使徒たちと初代の信徒たちが、ナザレのイエスへの理解と信仰内容を纏めて、後に教会に使徒信条と
して残した内容のことです。
本日のへブル人への手紙の言葉は、イエスをどの様に受け止めて、信じているかを述べています。
「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の
相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言
葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方
の右の座にお着きになりました。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエス
が、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって
、すべての人のために死んでくださったのです。 1:2~1:3
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死
から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの
源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」 5:7~5:10
これ等の内容が「標準文法」と言われています。教会はこの内容を過不足なく正しく伝え教えてゆく
事!に集中して参りました。それは全く正しかったと考えております。
へブル人への手紙の執筆年代は、マルコ福音書と前後する時代にあたります。紀元50年代からエ
ルサレムが滅亡する紀元70年までの間ではないかと言われております。そのことはイエスの死後30
年~40年後に書かれた書簡であって、当時の各教会では礼拝時に読まれたと言われております。そ
こにはイエスが直接に語った言葉は明記されてはいません。使徒たちはじめ最初の弟子たちがイエス
をどう信じて、受け取っているかが述べているのです。
今日の新約聖書学の分野の研究課題は、イエス自身はご自分をどう自覚しておられたのかを、福
音書に書き遺されたイエス自身の言葉から考察・研究が進められて参っております。
へブル人への手紙の著者は非常に高度なキリスト論を展開しております。
①
神の子としてイエスはすべての天使と古い契約のモーセを遥かに超える者である。
②
イエスは永遠の大祭司であり、しかも人間に対して思いやりがあり、「罪を犯さなかっ
た以外は、すべてにおいて、わたしたちと同じように試みに遇われた」
③
イエスがささげた犠牲は永遠であり、しかもすべての人々のために一度ささげられま
した。そして、この犠牲をささげた後、イエスは天の聖所に入ったのである。
十字架刑の刑場からいったんは逃げ出した弟子たちが、その後、生存していた時期に、ナザレのイ
エスとは何者であったのか!? と考えざるを得ない状況に至っておりました。
そして生前のイエスの言葉と出来事や癒された人々の証言を集めてゆく中で、福音書がまとめられ
てゆく時期とも、へブル書が書かれた時期とは重なっているのであります。
へブル人への手紙の著者の名はアレクサンドリア出身のユダヤ人キリスト者であり、修辞学に精通
して雄弁家であったアポロが最も有力とされております。(使18:24-28 Ⅰコリント1章―4章)
私は最近になって、「標準文法」と「わたしの物語」は信仰者個人と信仰共同体である教会は繋げ
て受容することが大事ではないか と 考えるようになりました。
教会生活の中で、普通に「わたしの物語」が語られ、もっと尊重して大切に取り扱われることが、教会
内を生き生きとさせるのではないだろうか!! と思うからであります。
勿論「標準文法」は基本信条として大切であることには揺るぐことはありません。
その上で、ひとりの人が信仰へと導かれてゆくきっかけになった出来事は、一見、何でもないけれども
、本人にとっては、とっても大切な出来事であるからです。ここでの人の内面に在る大切の物語をみん
なが共有して、その多様性が尊敬されてゆくならば、一体感が広がり、教会員一人一人が強められ
るのではないかと考えております。
私が大学生・神学生であった頃は、まだ、東海福音ルーテル教会の組織があり、小石川教会・本郷
教会・板橋教会・湯河原・小田原教会も、それに属しておりました。私は大学・神学校は東海福音ルー
テル教会の奨学生でありましたので、本郷教会には親しみがあり、また派遣されて出席しておりました
。礼拝後には学生・青年たちの学びと交わりが毎週の礼拝後に持たれておりました。
その折に各自が信仰に入るきっかけについて気軽に話し合っていたのですが、ある人は(直接に聞
いたのか、また聞きであったのかは明確ではないのですが)とても印象的で、今でも忘れられない内容
でございました。
「自分が信じるきっかけは、その日、雨が降っていたのだが、全く、雨に濡れることなく、教会にたどり
着けたので、信ずるようなった。」ということでした。「地下鉄の駅から上の出口に出た時には、一時的
に雨が止んでいた。そんなことが二度三度あって、雨に濡れることなく教会に導かれた。」半分笑いな
がら聞いたものでした。
今になっても、この話は、人が信仰に至る時の典型的な「わたしの物語」ではないのかと受け取って
おります。「わたしの物語」は人それぞれが持っているのではないでしょうか。なんでもないことですが、
私自身にもいくつかあります。
それらの「わたしの物語」は教会によって「標準文法」には採用されませんが、その人の個人史にとっ
ては無視できない出来事であるはずです。自慢たらしく、おうぴらには言えないとしても・・・。
「私の物語」の大切さについては、今年の聖霊降臨日前後に、聖書からの閃きを受けました。
使 2:4 -13 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとら
れてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジ
ア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神
の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
当時この二階の部屋には、ガリラヤからイエスに従って来た100人前後の男女の弟子が集ま
っていたのです。
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、
他の国々の言葉で話し出した。」
一人一人が他の国々の言葉で語り出した。このことは本人自身が体験しているのですが 同じ
ガリラヤからきた他の弟子たちにはそれは理解できない・解らない内容であったのです。語る本
人自身が体験し、経験する事柄であったからです。
「同じ道を信じる」ガリラヤの仲間はだれもわかってくれませんでしたが、予想外のところに、分
かる人々いたのです。
「私の物語」と言う時、その物語の内容は、各自それぞれ異なっているのであって、同じではな
い。でもそれは各自が思索した結果ではなく、突然「天」からの促しに因るものなのです。人が主
イエスへの信仰に導かれる時には、各自が固有の道筋を経るのだと言って良いでしょう。 しか
もそれは同じ天からの導きに因るのであります!!
「私の物語」は、信仰へと至る招きの入り口なのです。さらに信仰が深まり、マンネリの時期、挫
折の時期、信仰への回復時期、終末期に入って神様の助けと導きに気付いてゆく時期へと続き
ます!! 「私の物語」は編まれて、膨らんできたことに気付くのです。それは膨大なページの「
わたしの物語」になるでしょう。しかも、自分の勝手な思い込みではなく、「標準文法」との篤い結
びつきの中で自覚されて深められてゆくのです。
このことは、終活の時期に入った私自身は痛感しております。
①
もしかしたら、あの時死んでいたかもしれない。自分は平凡な人間ですが10回近く数
えられます。
②
あの先生方や友人たちに出会わなかったら、自分は既に行き詰まり、心身共に困窮
していただろう。
③
自分に両親が居た事、今も一緒に住む家族が居る有難さを終末期であるから特に感
じます。
④
90歳になっても、富士教会の礼拝に来ること自体が私の心身を健やかにします。神
様と皆様方の導きです。
⑤
神の御国:ゼロ・ポイントフィールドへの期待と楽しみがございます。