2024年 11月 10日 聖霊降臨後第25主日(緑)
聖書 : 列王記上 17章 8節~16節
詩編 146編
ヘブライ人への手紙 9章 24節~28節
マルコによる福音書 12章 38節~44節
説教 : 『 ささげて生きる 』
信徒のための説教手引き 信徒代読
教会讃美歌 : 276、 137、 135、 290
エルサレムで、最後の日々を送っておられたイエス・キリストは、神殿の賽銭箱に献金を入れる様子を見てお
られました。イエス・キリストは多くの人々と出会われ、話をし、また議論をされました。
また、キリストは誰がどのように献げておられるかについても関心をもって見ておられました。
教会にはお金の話はあまりそぐわない、と考える人もいると思います。人間が金銭への欲望をもち、宗教でさ
えも金儲けの手段として考えるようなこの世の中ですから、クリスチャンの中には、教会はあまりお金や経済のこ
とを話題にすべきではない、と考えたり話したりする人もいます。確かに教会は営利を目的とする団体ではあり
ませんが、また教会が経済と無縁でないことも確かです。聖書では万物が神様のものであり、神様のみわざの
ために、その財産をささげて仕えることは神様の民の当然の務めであると教えています。
旧約の時代にはイスラエルの民はささげものによって祭司たちの生活を支え、神殿を維持するように義務づ
けられていました。ハガイ書などを見ると、神様はご自分の民が捧げている様子を関心もって見ていることが分
かります。
またイエス・キリストが伝道されていた時代も、自分たちの財産をささげてイエス様の一行に奉仕した人々が
いました。またそれらの財産を管理する会計も弟子の中から選ばれていたのです。聖書も、神様の国の働きの
ためのささげられる献げ物について多くの箇所で触れています。神様はこのようにご自分の民がどのように献げて
いるかについて関心をもって見ておられるのです。ですから、お金のことを次元の低いこと、信仰生活の周辺の
事柄として遠ざけるようなことをすべきではありません。
さて、エルサレムの神殿の賽銭箱にはたくさんのお金を入れる金持ちがいました。たくさんの銀貨が投げ込ま
れるとき、きっと派手な音がして回りの人々の注目を引いたことでしょう。ですから、人目を引いてよい評判を得
ようとする人もいたと思います。しかし、その中に混じって一人のやもめがニクァドランスを入れた、と書かれていま
す。人々が見たなら、それは取るに足らないお金だったかも知れません。かつてキリストは二羽の雀は一アサリオ
ンで売られているではないか、と言われましたが、一クァドランスはその四分の一です。ですからニクァドランスは雀
一匹が買えるお金にすぎません。もし誰かがこのやもめのささげたものを見たなら、金持ちたちがささげたくさんの
献金とくらべて、なんとみすぼらしい金額だと思うことでしよう。
しかし、イエス様が見るところは違っていました。神様が見るところは人が見るところとは異なります。人はうわ
べを見ますが、神様は人には見ないところをご覧になります。イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、『はっきり言
っておく、この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から
入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れたからである』、と言われま
した。
わたしはここで、わたしたちが献げる、ということについていつも考える二つの言い訳が砕かれているように思い
ます。
ひとつは、「わたしは貧しいからささげられない」という言い方です。そのような言い分は、このやもめの姿の前
には打ち砕かれてしまいます。「わたしは収入が乏しいのだから多くを献金できないのは当然だ。収入が増えた
らもっと献金もできるのだが」と考えます。しかしそれは、「今」をささげようとしない言い訳にしかなりません。十万
円しか給料がないから、十分の一をささげることは無理だが、給料が倍になったらできる、と考える人はその時
になってもできないものです。献金は生活にゆとりがある人ができる、というのではありません。どこまでもその人の
信仰の事柄にかかわっているのです。
また、もう一つの言い訳である、「生活を圧迫してまで献金すべきではない」という考えもここでは打ち砕かれ
ます。ここでは、「あなたは何を第一にしているのか」が問われているのです。「わたしは神の国とその義とを第一
にしています」と誰もが言えるかもしれません。また「人はパンだけでなく、神様の口からでる一つひとつの言葉に
よって生きる」というかもしれません。「それなら、あなたの手元にわずかなお金があるとしたら」それを何に使いま
すか、と問われたとき「神の御国のためにささげます」と言えるでしょうか。
ここでは、わたしたちは本物の信仰を問われています。わたしたちは言葉では立派な信仰を語ることができ
るかもしれません。でもお金の事になると、わたしたちの本音が出てきます。お金の問題は具体的、現実的な
事柄ですから信仰の姿勢がはっきりと現れてきます。
わたしたちがどのように神様を愛し、また神様に信頼し、従っているかということの具体的なしるしがわたした
ちの献げ方にもあらわれてきます。ですから、献金や教会の経済の問題を、わたしたちの信仰と献身の事柄と
切り離して考えることはできません。献金の事柄は、つまるところ信仰の事柄と言えます。
しかし、神殿で人々の献げものに目をとめておられたイエス・キリストのみことばのもうひとつの面に目を向けた
いと思います。『この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた』。
イエス・キリストは、やもめより多くの財産を持ちながら、本当はわずかしかささげないでいる人々の献げ物を「
無に等しい」とか、「ない方が良い」とは言われません。もっと多く献げられたはずの金持ちを非難してもいません
し、「その献げものが貧しい」とも語られていません。ただこのやもめが、「だれよりも多くささげた」と評価しておら
れるだけです。
キリストは、今日のみことばによって、人の目には多く献げたように見えても、本当は主の目には少なく献げ
ている者の誇りを取り去られます。しかしまた、不十分な者を失望させてもいません。貧しい献げものであつても
、それを受け入れてくださっています。
イエス・キリストはわたしたちのためにご自分のすべてをささげ尽くして下さいました。その主に対して、あまりに
も貧しいわたしたちの信仰の応答を退けないでいてくださいます。
ですから、わたしたちは今日、この主の恵みの前に、外面的な誇りを捨て、わたしたちのささげものがより真
実なものとなるように求めて行きたいと思います。
そして、この主の前にふさわしく、真実に自分自身をささげる生き方ができるように祈り求めたいと思います。
●祈リ
主よ、あなたはご自分のすべてをささげてくださいました。そのあなたのみ前に、自分を惜しんでいるわたした
ちをゆるして下さい。そして、この貧しい者をいま受けいれてください。わたしがあなたの恵みにたいしてふさわし
い、本当の献身ができるように、聖霊をもって導いてください。このお祈りをイエス様のみ名によってお祈りします。
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