2024年 11月 24日 聖霊降臨後最終主日(緑)
聖書 : ダニエル書 7章9節~14節、13節~14節
詩編 93編
ヨハネの黙示録 1章 4節b~8節
ヨハネによる福音書 13章 33節~37節
説教 : 『 永遠の神様の御守り 』
光延博牧師(静岡教会) 信徒代読
教会讃美歌 : 170、 370、 386、 470
教会の暦の上では、今日が一年の終わり、そして来週から新しい一年が始まります。救い主
を待ち望むアドベントは、暗い夜から朝へと、神様からの光を待ち望む旧約の民の信仰にも通
じるでしょう。私たちはそれぞれ苦しみや悩みを持ちながら懸命に生きています。その中で、
神様ご自身を、救い主ご自身を待ち望むのです。
旧約と使徒書の日課にあるような黙示文学作品を通して、驚くべき救い主の到来が告げられ
ます。救い主が神様から遣わされます。ニ千年前に確かに到来してくださった救い主が再び来
てくださることを私たちは待ち望みます。再臨(パルーシア)と訳される原語には、現臨とい
う意味もあります。すでに来てくださったイエス・キリストが片時も離れることなく、共にい
てくださっているご真実の中に生かされつつ、それを見失ってしまいがちな私たちには、主イ
エス・キリストが再び来てくださるという絶えることのない希望が与えられているのです。過
去の瞬間瞬間に共にいてくださった救い主が、今も、明日もこれからいつでもどんな時でも共
にいてくださるというご真実の希望が、再臨という表現で、未来形でもって語られることは当
然です。今は過去となり、今は未来へ向かって行きます。その中で、「あなたの罪は赦された
。立ち上がって歩んでゆきなさい」という主イエスのお語りかけを受けながら、私たちは前を
向いて進んでゆくのです。
今共にいてくださっている救い主を聖霊の眼は見ることになります。全宇宙に満ち満ちに、
あらゆる方向から迫ってくる、肉眼では見えないけれども、恵みの光をもたらす驚くべき御業
を私たちは見ることになります。かつて見た方、今見ておられる方もおられるでしょう。光り
輝く神の国は遠くにあるのではなく、今ここにある、聖書が証言する通りです。その時、主イ
エスが命、生活、人生のまことの王であることをはっきり知ることになるでしょう。
この王は、相対的なこの世の王ではなく、真理なる永遠の王です。この王によって私たちは
生きています。救いなる神とその御子による救いの中に私たちは生まれ、生き、帰ることが決
定されています。自分の力で生きている存在は一つもありません。にもかかわらずこの世は、
自分の力を賛美する自己中心、人間中心の世界です。うぬぼれが支配しています。にもかかわ
らず神様はそういう私たちを見捨てられません。真理を見ようとしない人間のところに真理か
ら本当の支配者、王が来てくださったのです。
真理が来ました。しかし、人間はそんなことなど求めません。自分の願いを叶えてくれる人
だけがいればいいと考えがちです。自分が求める救い主でないならば、人間はその人を偽メシ
アとして抹殺するでしょう。実際にそうでしたし、我欲に従う私たちにとってはこれからもそ
ういうことを繰り返すような私たちです。人間の世界を見渡せば、滅びに向かう我欲が荒れ狂
っているのを見ることは容易にできます。
どこに神様がいるのだろうか、神様は本当におられるのだろうか、と思うことは簡単なほど
に人間社会の悲惨があります。しかしそういうことだけではないことをも私たちは知っている
でしょう。愛というものがあることをも見ています。自分のことよりも人を助けるために働く
のを自分の中にも他の人の中にも見ることができます。神様によって出ている働きです。神は
愛なり、です。愛は確かに働いている、ここで私たちは、神様が、救い主が確かにおられるこ
とを見ます。神様はお働きくださっており、導いていてくださっていることは本当の事だと、
主イエスが示されたまことの愛によって希望を持つことが与えられているのです。
愛は仕えます。自分のことよりも他者の苦しみを感じることが実際あります。人のことを慮
り、苦難の多いこの世を少しでも良くしていこうとしている方々、そして皆様方お一人おひと
りの愛が実際に働いているのを、仕え合っているからこそ生活が守られていることを知ってい
るのです。
愛は自分が作ったものではありません。神様から出たもの、そして救い主からやって来るも
のです。そしてそれは来ています。そしてこれからも来ます。過去も来ていました。なぜなら
、愛なる神様の中に存在しているからです。これが時空を超えて働いている真理です。どんな
に私たちが我欲をもって滅びに向かっていようと、にもかかわらず、神様の愛のお働きが止む
ことなど、愛なる神様がご支配しておられるこの宇宙から飛び出ることなど不可能です。です
から、詩人は詩編23編で「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と歌うのです。
ピラトこそがイエス・キリストから問われています。他人事ではなく、あなたはどう思うの
か、と救い主に真向かわれています。その時にははぐらかしたとしても、この一大事の問題は
彼を追って来るでしょう。自分自身の命そのものとの対話、自分の存在に関わる対話だからで
す。神様と私との親と子の温かい命のつながりという真理、命の不思議とその出処についての
事柄は、荒れ狂う我欲のニヒリズムの中で問い続けることになるでしょう。私の人生とは一体
何なのだ、と。肉と成った真理が問うて来ます。愛そのものが他ならぬこの私に問うているの
です。
イエス・キリストは真理が肉をとって到来したお方です。その方は愛です。仕え続けられま
す。過去も今も将来も私たちに仕え続けていてくださいます。だから生きています。有限の私
が無限のお働きを受けて、愛されて生きている、生かされていくのです。これが神の国(神様
のご支配)であり、真理です。
今日私たちは迫って来る真理、イエス・キリストから救いの中を生きるようにと呼びかけら
れ、招かれています。その招きを聞き入れる時、私たちの前に大きな世界が広がっていくこと
でしょう。救い、赦し、自由と愛へ招き入れる慈しみの世界を生きる道にある私たちを生きる
ことになるでしょう。イエス・キリストが命を懸けて全身全霊で現してくださった救い、神様
にいだかれた世界に在る私たち、全被造物の王なる方に守られ導かれていることをご一緒に覚
えたいと思います。
その時、私たちはニヒリズムから解放されます。生きている以上暗さはあります。しかし、
この闇の中に灯っている光を見い出すのです。その光が導いてくれる。私たちの人生は意味が
ある。どんなことも意味がある。「人生には何一つ無駄なものはない」(遠藤周作)のです。
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