2024年  12月 15日  待降節第3主日(紫)

      聖書 :  ゼファニヤ書          3章 14節~20節
            イザヤ書             12編 2節~6節
            フィリピの信徒への手紙    4章 4節~7節
            ルカによる福音書        3章 7節~18節

      説教 : 『 さらば 我ら何を為すべきか 』
                      木下海龍牧師

      教会讃美歌 :  1、 3、 17、 16

 祭司ザカリアの子ヨハネに神の言葉が降った。彼はヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦し
を得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。霊的な激しいヨハネの言葉に動かされて、群衆
は尋ねたのです。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と。

 ヨハネは「悔い改めの洗礼を」受ければよろしい。とは、言及しませんでした。洗礼を授けてもらおうと
して出てきた群衆に宣言したのです。

ここで、ヨハネはそんなに難しいことを告げてはおりません。良心的な生き方をしている人にとっては
、普通に義しいと思っている事を その時の誘惑に左右されずに実践するようにと告げているだけなの
です。

 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持ってい
る者も同じようにせよ」
と応じました。

 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。

 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆ
すり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」
と言った。

 生きて行くための、生業・職業・職務を本来の目的に沿って誠実に実地することを述べていると言っ
ていいでしょう。

 当時の徴税人や兵士はややもすると規定以上のものを取り立てがちになったり、兵士は軍隊の権威
を笠に着て、時には武器にものを言わせて、欲しいものを取り上げる、と言う傾向もあったのでしょう。
(日本に進駐して来た米軍は、焼け残った民家から必要な品物、家屋や家具類を有無を言わせずに
調達した話をよく聞きました。島田星子さんからはピアノの足にしがみ付いて離さなかった話を伺った
ことがあります。)

 悔い改めの洗礼を望んで訪れた人に向かって荒野のヨハネは人が生きる中で、人への愛と親切と
自分が余分に持っている衣服や食べ物で隣人のピンチを助けなさい!と。

 こうしたことは、誠実なキリスト者にとっては、普通に正しい市民として歩んで来た道筋でありましょう
。完全では無かったにしても、全く出来ない事柄ではないと思っております。社会におけるキリスト教的
倫理生活と言えましょう。

 主イエスを信ずる者として、この世に生きて行く私共に、パウロ書簡では、さらに広く深く高い見地か
ら生きて行くことが勧められております。

 それは、この世の社会の中で、人との交流や接触を重ねながら生活を維持しておりますので、効率
よく、且つ人間関係を円満にこなしながら、進めてゆく事でありましょう。

 同時に、社会通念的な良き市民としてだけではなくて、神様が喜ばれ、神様が望まれている生き方を
重ねながら、社会生活をするように諭しているのだともいえるのです。

 そうした勧めは、人間である私の視座と神の視座を併せ持つことになるのであります。

 良い例であるかどうかは分かりませんが、私自身現在のところ、体重が減ってきておりますので、筋
肉をつける意図をもって、たんぱく質を取るように意識しております。朝食には卵の一つは必ず頂く事
を務めております。毎朝、自己流の体操を行い、15分から20分の瞑想をいたします。

 これ等は、筋肉が落ちて弱ってくると、歩けなくなり、教会の礼拝にも行けなくなると、人の集まりから
遠のくことになります。それを防ぐためと、さらに認知症予防の意図も自分にはあります。

 それらは、閉じこもらずに、この世の社会へと出かけて、交わって生きるための努力の一つです。

 しかしながら、同時に、与えられた命を健康的に活きキルことは、命を与えた神様の御心を活きてゆ
く事でもあると思っております。神のみ前で自分はこの世を活きて行く生き方、と言いましょうか。

 その神様の御心を活きて行く活き方として、本日のフィリピの御言葉は、私どもを諭し、奨めていると
読み取って良いでしょう。

フィリピ4:4
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(時の良し悪しに関わらず、人々の
前で微笑みを絶やさずに・・・励ましと慰めをもたらしましょう。)

4:5
あなたがたの広い心(寛大さ)がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近く(再臨の主は近い)におられます。

4:6
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求め
ているものを神に打ち明けなさい。(感謝を伴った祈りと願いとによって、あなたがたの求めると
ころが神に知られるようにしなさい)

4:7
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによ
って守るでしょう。(すべての理性を超えた神の平安が、あなたがたの心とあなたがたの想いと
を、キリスト・イエスにあって護ってくれるであろう。)

4:8
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと
、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心
に留めなさい。

4:9
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうす
れば、平和の神はあなたがたと共におられます。

自然な心持でキリスト教倫理を生きることは、教会と聖書から教えられた教理的な神概念とは別に、
ご自分が体験し、実感している聖なる領域体験が決定的な助けになるでしょう。聖なる領域体験とは
貴方だけが独自に実感する神様と主イエスとの関係を持つに至った「私の物語」と言えるものです。
その体験は、過って自分の身に起こったことを想い起こすことでも在りましょうし、新たに、今・此処で、
この時に導かれることもありましょう。いずれにしても、自分への神様の訪れを待つことなのです。

 神の領域から訪れを待つ有効な道筋は、毎日一定の時間を聖別して、5分~20分の間、心静かに
して只管(ひたすら)に待つのです。おそらく2ヶ月~3ヶ月もすれば、貴方だけの体験があるはずです。
それを一つの種子として「私の物語」を大事に育てて参りましょう。アーメン。

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