2024年  12月 22日  待降節第4主日(紫)

      聖書 :  ミカ書               5章 1節~4節a
            詩編                80編 2節~8節
            ヘブライ人への手紙      10章 5節~10節
            ルカによる福音書        1章 39節~45節

      説教 : 『 信仰者たちの出会い 』
                   信徒のための説教手引き 信徒代読

      教団讃美歌 :  94、 96、 391、 95

神様の御子がこの世に生まれたクリスマスは、神様の偉大な救いの実現の時でした。でも、それは突然に
起きたことではありません。神様の約束にしたがって実現したことです。

はるか昔、人間が神様に背き、神様が与えてくださる栄光を失ってしまったその時から、神様は救いの御
計画を人間に告げられたのです。人間を惑わした蛇に神様が告げた言葉を思い出しましょう。

『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかと
を砕く』 (創世記3:15)。 これは「最初の福音」と呼ばれている神様の救いの予告です。

人間を支配している悪の力を打ち破る者は「女の子孫」としてやって来ます。救い主の出生に関係するの
は男と女ではなく、女だけなのです。そしてそのために選ばれたのがマリアでした。

先週の日課でも見たとおり、マリアは自分に与えられた役割について天使から知らせを受けたのですが、に
わかにはそれを信じることができませんでした。マリアにとって、自分がみごもって男の子を産むなどということは身
に覚えのないことでしたから。しかし天使はマリアを励ますように言います。『「聖霊があなたに宿り、いと高き方
の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神様の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年
をとっているが、男の子を身ごもっている」』 (36)

マリアよりも先に、ザカリヤの妻エリザベトが、年老いているにもかかわらず妊娠している、というのです。しか
ももう6カ月もたっています。おなかが目立つほど大きくなっているので、エリザベトが妊娠したことは誰の目にもも
う明らかです。

そこでマリアはエリザベトに会いにナザレを出て、祭司ザカリアの家に向かいました。そしてエリザベトに会って
挨拶をしました。するとエリザベトは自分の胎内にいる子供が踊るのを感じました。エリザベトの胎内に宿ってい
る子は、後にイエスの先駆者となるヨハネでした。その子の名前も使命もすでに決められていたのです。

ヨハネは後にこう言いました。『「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花
婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている……』(ヨハネ3:29)。ヨハネはすでに
母の胎内にいる時から、自分がやがて仕えることになる救い主の母の声を聞いて喜び、踊つたのです。

救い主の誕生という偉大な神様の働きのために召された二人の女の出会いはこうして喜びに満ちた時に
なりました。

ある人は、「このマリアとエリザベトとの出会いに、教会の原型ともいうべき姿がある」と言いました。本当にそ
の通りだと思います。マリアとエリザベトは会うことによって、お互いを結びつけている不思議な神様の御計画を
確認し、お互いの信仰を深め、神様に召され、用いられていることを互いに喜び合ったのです。

マリアとエリザベトが神様に召されたように、今日わたしたちも神様の御業のために召されています。教会は
イエス・キリストの体として、その働きを通して人々がイエス・キリストに出会うために、そしてその恵みにあずかる
ために仕えるようにと召されているのです。わたしたちはこうして集うことによって、わたしたちに与えられている大
切な使命をお互いに確認し合うのです。

しかし、忘れてならないことは、このような大切な務めを与えたのは神様であり、決して私たちが自分の願
いによって手に入れたのではない、ということです。神様に召された人々は皆同じです。自分が有能であるとか
、立派だから神様に選ばれたのではありません。『「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたが
たを選んだ」』と主イエスが言われた通りです(ヨハネ1516前半)

ですから、共に集うことは、何よりもそのように選ばれ、召されていることの喜びを分かち合う時です。わたし
たちの働きや使命について検討するよりも先に、私たちに心を留めてくださった神様の御心を喜ぶべきです。マ
リアとエリザベトの胎内には、やがて生まれてくる新しい命が息づいていましたが、私たちの内にも聖霊が息づい
ています。この聖霊は新しい命であり、やがて実現する、神様の子としての新しい「私自身」なのです。

この聖霊をいただいている者どうしが集まると、お互いの内の聖霊が喜び合い、その喜びが響き合って、ちょ
うどマリアが賛歌を歌ったように、あふれる賛美となってゆくのです。「神様はあなたを愛して召してくださったんで
すね」という喜びをもって互いに出会い、その喜びを分かち合うところ、それが教会の交わりなのです。

わたしがここでいつも驚きを感じるのは、エリザベトがマリアに対してとっている態度です。エリザベトはマリアよ
りも年上ですし、また田舎のナザレの無名の娘であるマリアに対して、エリザベトは祭司ザカリアの妻であり、大
祭司アロンの家の出身でした。ですから、イエス・キリストがこのエリザベトから生まれても決して不思議ではなか
ったのです。しかし神様が選んだのはマリアでした。

エリザベトはそのことに関して何ひとつ不満や不平をもってはいません。かえって自分の身を低くし、年下の
マリアに尊敬をもって迎えているのです。

『「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわ
たしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」』(43)。まるで、自分はあなたをお迎えする値打ちはな
いのに、といわんばかりです。エリザベトの子供であるヨハネもイエス・キリストにそのようなへりくだった態度を取っ
たのです。確かに家柄はヨハネの方が立派ですが、ヨハネはイエス・キリストについて、「わたしはあの方の履物の
ひもを解く資格もない」とまで言っているのです。

神様はこのように、しばしば外側の姿とは反対の賜物を与えられることがあるのです。この世の力や知恵も
教会には必要です。しかしそうした知恵や力を持たないように見える人々の信仰や祈りが教会に命を与えて
いることがあるのです。見栄えのしないほうがより大切な責任を負っている、ということがあるのです。

でも、こうしたことはすべて神様の御心に従っていることです。さきほど言いましたように、わたしたちはそれぞ
れに与えられている賜物や職務について、お互いに比べあったり、誇ったりすべきではありません。

後にイエス・キリストの素晴らしい御言葉とその働きを見た一人の女性がキリストに向かって大声で言いま
した。『「なんと幸いな事でしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は……」』(ルカ11:37)。 「あなたの
ような素晴らしい方のお母さんとなることができた女性はなんと幸せなことでしょうか」。

この叫びに対してイエス・キリストはこうお答えになりました。『「むしろさいわいなのは、神様の言葉を聞き、
それを守る人である」』(ルカ11: 28)

確かにマリアは救い主の母となる(という光栄ある務めに召されました。しかし彼女はイエス・キリストを肉体
的に産んだに過ぎません。もっと大切なのは、マリアも含めて、わたしたちが、イエス・キリストがお語り下さった命
の御言葉を受け入れ、それを大切に心の内に守ることなのです。その御言葉がイエス・キリストの命をわたした
ちの内に与えてくださるからです。わたしたちは何よりもそのことを喜び、誇るべきなのです。

●祈 り

神様、あなたがエリザベトとマリアをお選びになり、また出会いを与えてくださったように、今日わたしたちにも
喜びの出会いを与えてくださることを感謝します。わたしたちがお互いを喜び、大切にし、一緒に神様の救いの
御計画仕えてゆけるようにお導き下さい。

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