福音書からご一緒に御言葉を聞いてまいりましょう。
イエス様が12歳の時のエピソードです。過越祭からの帰り道、両親ヨセフとマリアはイエス
様がいないことに気づき探します。イエス様は神殿の境内にいて、「学者たちの真ん中に座り
、話を聞いたり質問したりしておられ」ました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答え
に驚いていた」と、その時のことが書かれています。母マリアはイエス様に言います。「なぜ
こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです
」。すると、イエス様は言われました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の
父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。このイエス様の言葉の
意味が両親には分からなかった」とあります。今日は、イエス様の両親へのお返事の言葉の中
にある、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」という言葉に注目してみたいと思います。
「家」という語は原文にはありません。直訳では「わたしがわたしの父の中に居るのは当た
り前です」、あるいは「わたしがわたしの父のところに居るのは当たり前です」となります。
「神殿」が「神の家」の意味があるため、またイエス様は神様のことを「父」と言われますの
でそのことを加味して、「父の家」という訳語になったのだろうと思います。イエス様は神殿
だけを父の家と思っておられたかというとそうではありませんから、「父の中」と言っても「
父のところ」と言っても、それは「神殿」だけを指すのではありませんね。
イエス様にとって、父のおられるところは全宇宙どこでもであり、ご自身が居るところどこ
でもがそうです。イエス様は神様のことを「父」使われていた日用語では「アッバ」、つまり
「とうさん」あるいは「とうちゃん」の意味ぐらいの、本当に親しい呼び名で生きてゆかれま
した。アッバなしには存在はないと、存在するという事はアッバが共におられる、という命の
根源と働きをいつも見ておられます。ですから、イエス様にとって「父のところ」とはどこで
ものことです。最後の十字架上でもそうでした。イエス様はいつも父のところに居ること、父
の中に存在することを見つめ、認識して歩まれます。そのことが今日のこの場面でも表れてい
ます。
そして、今注目している一節をドイツでは「わたしは父の仕事の中に居る」と訳す方もある
ようです。「父の仕事の中、父の働きの中」という翻訳です。素晴らしい訳だと思います。「
神は愛なり」と申します。神様は宇宙のどこかにおられるというよりも、愛としてお働きくだ
さっている働きそれ自体です。目には見えません。見えませんが、愛によって存在を生み出し
、支え導き、有限なる肉体の死に至る最後にはご自身の御許に召し迎えられます。目には見え
ませんが実在なさいます。
イエス様はこの愛なるアッバと生きられました。目には見えないアッバといつも二人で。だ
からこそ、アッバの子どもであるご両親も、そして出会う一人ひとりを大切にしてゆかれます
。実際に自分の生命を底の深みから支えていてくださるのを感じ取りながら歩みの場面場面で
、「アッバならどう想い、どう行動されるだろうか」と問答・対話しながら歩まれたのです。
アッバはアガペーの無償の愛でみんなを支えておられる。それを受けている者としてふさわし
く生きる。どんなときにも共におられるアッバの愛のお働きを共に行う、その愛のお仕事を一
緒に行う。「ここ」にイエス様はおられました。今ここは「アッバの中、アッバのところ、ア
ッバの働きの中」だと受け取って生きられたのです。
死を目前に控えたゲッセマネの園では、血のしたたるような汗を流しながら祈られたのを思
い起こします。今日の場面からおおよそ20年後のイエス様です。このようにアッバと対話され
ています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願
いではなく、御心のままに行ってください」。「わたしの願い」をあくまで立ててそこに歩も
うとするのではなくて、アッバの御心に従おうとするお歩みでした。このようにイエス・キリ
ストは目には見えない、命の根源なる神をアッバと呼び、アッバと共に歩みを進まれることが
、今日の場面でも読み取れるのです。
さて、お遍路の旅について、また「同行二人」という言い方について私たちは耳にすること
があります。お遍路の旅は常に弘法大師が一緒におり、歩いているのは一人であっても、自分
と弘法大師の二人であるという意味だと聞きます。今日の日課の場面に思いを馳せますと、主
イエスはアッバと同行二人で歩み抜かれたと、このように捉えてもよいのかなと思います。そ
して私たちも主イエスのようにアッバと共に、また主イエスと共に「同行二人」でいつでも歩
んでゆけるのだと思います。私たちの命・生活・人生(life)のところへ、神様の救いがイエ
ス・キリストによって届けられました。救い主と「同行二人」。どこでも「同行二人」。共に
おられます。神様の愛がここに、どこにでもあります。「そこ」・「アッバの中」・「救い主
のところ」に私たちは居るのです。12歳のイエス様がお示しくださった通りなのです。
最後に、年末年始に私が好んで読むボンヘッファーの詩を引用したいと思います。獄中に在
って、遠く離れて暮らす婚約者や家族、友人などを想い、親しいその方々の姿を見たり、実際
に会うことが叶わない中で、愛するその一人ひとりに神様のよき力によって慰め励ましがある
ように祈りつつ書かれました。処刑の4か月前でした。「よき力に」という詩です。様々な問
題をなおも抱えながら2024年の終わりを迎え新しい年へ向かおうとしている私たちはご一緒に
この詩に聞きたいと思います。 “よき力に真実に そして静かに取り囲まれ 不思議にも守
られ慰められて 私は毎日毎日をあなた方と共に生き そしてあなた方と共に新しい年へと歩
んで行く 過ぎ去った年は私たちの心をなおも悩まし いまの悪しき日々の重荷はさらに私た
ちにのしかかるだろう ああ、主よ この恐れ惑う魂に あなたの備えて下さった救いを与え
て下さい あなたが苦き杯を、あの苦しみの苦き杯を なみなみとついで差し出されるなら
私たちはそれをためらわずに感謝して あなたのいつくしみ深き愛の御手から受け取ろう あ
なたがこの闇の中に持って来て下さったともしびを 今日こそ暖かく静かに燃やして下さい
御心ならば私たちを再びともに会わせて下さい 私たちは知っている あなたの光が夜の闇を
つらぬいて輝くことを 静寂が今や深く私たちのまわりを包む時 共に聴こうではないか ひ
そやかに私たちの回りに広がっていく 世界の豊かな音の響きを 善き力に不思議にも守られ
て 私たちは心安らかに来るべきものを待つ 神は朝も夜も、また新しい日々も 必ず確かに
私たちと共にいて下さる”(『讃美歌21』469番にも集録)。
見えないけれども本当にある命の恵み、生活を包み、人生を祝福していてくださる永遠の命
である神様を年の瀬の今静かに覚えたいと思います。「イエス・キリストは、きのうも今日も
、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)との御言葉もあります。慈しみ深
い救い主が共におられます。この一年の歩みを守ってくださった神様に感謝しつつ、救い主と
「同行二人」、救い主と共に新しい年へと進んでまいりましょう。皆様のうえに聖霊による御
言葉の慰めと励ましがありますように、祝福が豊かにありますようにお祈りいたしております。