2024年 12月 8日 待降節第2主日(紫)
聖書 : マラキ書 3章 1節~4節
ルカによる福音書 1編 68節~79節
フィリピの信徒への手紙 1章 3節~11節
ルカによる福音書 3章 1節~6節
説教 : 『 その道はどこへつながるか 』
信徒のための説教手引き 信徒代読
教会讃美歌 : 9、 7、 13、 5
クランツのろうそくに二つの灯がともり、クリスマスまで、あと二週間となりました。教会では、この季節を待降
節、アドベントと呼んでいます。読んで字のごとく、主が降って来るのを待つ、すなわち主をお迎えする備えの時
です。与えられたこの時期に、みなさんと共に、聖書からのメッセージを聞きたいと思います。
本日の福音書の箇所を振り返ると、最初の1、2節で、聞きなれない人名や地名が、次々と表れます。
よく読むと、この1節と2節の舌をかみそうな文章は、ただ「神の言葉が降った」という、この一言を言いたいがた
めに、書かれているようです。
たとえて言えば、それは、誰々が何々教会の牧師、誰それがその教会の代議員、そして誰々が女性会の
会長であったときに、神の言葉がこの地に降った、というようなことで、その時期とその時代の背景がわかるように
説明されています。
もっとも、それはスケールの大きなことで、ここで登場するのは、ローマ皇帝の名前から始まっています。世界
的スケールで語られています。次期アメリカ大統領トランプが、ロシアの大統領プーチンが、日本の石破総理の
時、また、4年後の2028年にロサンゼルスオリンピックが開かれるこの時に、神の言葉が降り、全地に響き渡っ
た、というような感じかと思います。
要するに、神様の言葉が、世界中のすべての人たちのもとに届けられた、ということなのです。けれども、そ
れは不思議なことでもあります。聖書を初めから読んでいけば、神の言葉は、多くの預言者によって、いつも民
に語られていました。それなのに、あえてここで改めて、神の言葉が降った、と書かれてあるというのは、どういうこ
とでしょうか?
それは、今迄と比べようもない、大きなメッセージが降ったということに他なりません。これまでとは違う、もっと
深い意味の神の言葉とか、今までとは全く質の異なる神の言葉が降った、人類の歴史を二分してしまいそうな
、決定的な神の言葉が降った、ということを意味していると考えることができます。
そのような、人類の歴史の方向性を大きく変えてしまうような偉大な神の言葉が、一人の人物の上に降っ
たのです。その人物の名は、ザカリアの子ヨハネと書かれています。
それでは一体、どんな言葉が彼の上に降ったのか、ということになります。残念ながら、それは記されていま
せん。具体的にこういう言葉だった、ということは、どこにも記載されていないのです。しかし書かれてはいません
が、私たちはこれを憶測することはできます。それは、その言葉を受けた、彼のその後の行動によってわかるので
す。
これは皆さんも、ご自分の経験でわかることではないでしょうか。私たちは皆、受けたものを自分のものとし
ていくものでもあります。自分の行動パターン、価値観、人との会話。そういう一つ一つの中に、私たちが何を
今まで受けてきたのか、ということが、色々な形で表れてくるのです。わかりやすい例えで言えば、教会とは縁も
ゆかりもない人と何年かぶりで再会したら、クリスチャンとなって、教会に通う人になっていた、なんていうことに出
会えば、この何年かの間に、この人は思うことがあって教会に通ったのかな、誰かの影響を受けたのか、などと色
々と考えるだろうと思います。そして、いずれにしても、神様がこの人を導かれ、語り掛けてくださった、ということ
だけは間違いのないことです。そして、その人の口から証でも聞くことが出来たなら、なおはっきりと、神様がその
人に何をなし、何を語ってくださったのか、よくわかるでしょう。
ヨハネの神の言葉が降った。何という言葉だったかは、彼のその後の行動で、私たちは判断できます。彼は
、降ってきた神様の言葉を受けると、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の許しを得させるために悔い改
めの洗礼を宣べ伝えます。それは旧約聖書のイザヤ書で預言されていたことであり、谷を埋め、山を低くし、道
をまっすぐにして、主をお通ししなさい、呼ばわるものが荒れ野に現れる、ということでありました。それが自分だと
、ヨハネが受け止めたのです。ヨハネは神様の言葉を受け取ると、かなり広範囲に渡って、人々のもとを訪れ、
悔い改めなさい、そして道を通しなさい、ふれまわったのです。なぜ悔い改めて、道を通すのかと言えば、もうす
ぐ救い主がやってくるからです。
ここにおいて、ヨハネのもとに降った神様の言葉が何であったか、が明らかにされています。すなわち、ヨハネ
のもとに降った神様の言葉とは、・・・救い主がやってくる。あなた方は、この方を自分の体に、自分の心に、自
分の生活のすべてにお迎えするために用意しなさい。この方がやってこられるから、全身全霊を注いで、道を通
して待っていなさい。せっかく救い主が、向こうから来て下さるというのに、あなたがたは心を閉ざしていては、救
い主も来たくても来れない、道ががたがたなら、救い主も通りにくい、あなたがたの心の中を空っぽにして、救い
主が入ってこられるように、整えていなさい・・・ということです。
ヨハネはこのことを、悔い改めなさい、という一言に託しています。それは方向を変えよ、ということです。どこ
からどこへ変えるか、と言えば、人を見る目から、神を見る目へ、と変えなさいということではないでしょうか。
私たちの目はいつも、人を見ているのです。人をうらやみ、人を恨み、人を憎みます。また、自分を見れば
、自分を正しいと思ったり、自分のいたらなさに、絶望することもあります。私たちの目が人を見る時、不思議と
、心はふさがっていくのです。周りが見えなくなっていくのです。そこで聖書は、悔い改めて主を仰ぎ見る、というこ
とを示します。主の御前にある自分を見つめると、まったく違う生き方が生まれるのです。それが信仰に生きると
いうことです。
主の到来を待ち望む、待降節の日々。備えの時。どのように私たちは、過ごすのでしょうか。こうでなけれ
ばならない、ということはないと思いますが、ただ、私たちの在り方によらず、主は、いつも来ようとしておられる。
このことをしっかりと、今日も胸に、心の中に刻んでおくことが大切です。
たった一日でも、たった一瞬でも、心の目を天に向け、救いと平安をしたい求め、主をお迎えする日々を
送る。そのような日々を共々送っていきたいと思います。
<祈り>神様、かつて、ヨハネを通して、悔い改めて、主を迎えよ、とあなたは語られました。そして、その
言葉は、今も、私たちに響いています。どうか、今、私たちに悔い改めて、主を迎える備えをさせてください。私
たちの心と体に、主を迎えさせてください。私たちのもとに来られる、救い主イエス様のお名前によって、祈ります
。アーメン
戻る