今日の聖書の箇所はイエス様の栄光が顕れた、という箇所です。
まず、「6日後に」 とありますが、6日前、つまり一週間前にはペテロがイエス様に向かって、「あなたは、
メシアです。」 と告白したのです。弟子たちはイエス様と一緒に生活して、イエス様が神様の子供だ、救い主だ
、ということがわかったのです。
ところが、イエス様はすぐに弟子たちに向かって、「わたしは今からエルサレムにゆくが、そこで人々に苦しめ
られ、殺され、三日目に復活するであろう。」 と言われました。それを聞いた弟子たちは大変に驚きました。す
ぐ前にイエス様に対して、「あなたこそキリストです。」 と言ったペテロは 「先生、とんでもないことを言わないでく
ださい。」 とイエス様に注意したのです。するとイエス様はペテロに 「サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をする
な。」 と叱り付けました。
弟子たちはイエス様を信じたのですが、でも、イエス様が、自分たちが期待したメシアであって欲しかったの
です。モーセがイスラエルの国をエジプトから救ってくれたように、イエス様も奇蹟の力でイスラエルの国を救ってく
れるメシアであって欲しいと考えたのです。
だから、イエス様を信じていたけれども、イエス様の救いのはたらきを理解し、御心に従うということはまだま
だ難しかったのです。イエス様はその一週間後に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、高い山に登り、そこ
でご自分の栄光をお見せになりました。
主の栄光が現れる
弟子たちはイエス様の姿が変わり、光り輝く姿になるのを見たのです。しかもそこにはイスラエルの英雄であ
るモーセやエリヤの姿もありました。これまでもキリストは様々な奇蹟によって、ご自分の力を表してきました。そう
した奇蹟によって弟子たちはイエス・キリストを信じることができましたし、キリストに従うことができたのです。
そして今ここでもキリストはご自分の栄光の姿を弟子たちに表されたのです。キリストの受難の話を聞いて
動揺していた弟子たちにとって、このキリストの栄光の姿を見ることはどんなに強い心の支えになったことでしょう
か。輝くイエス様の姿を目にしたとき弟子たちが考えたことは、「イエス様にこのままの姿でとどまっていて欲しい」
ということでした。栄光のイエス様の姿をこの山に来た人々が見るならば、きっとみんながイエス様を無条件に信
じるに違いないからです。
だからペテロは、「あなたとモーセとエリヤのために仮小屋を造りましょう。」 と提案したのです。 「仮小屋」
とペテロが言ったのは、イエス様が人々に認められたならばエルサレムの山に移らなければならないからです。そう
なれば、イザヤ書に記載されている、万国の民が主の山に登ってくる、というイザヤの預言が実現します。(イザ
ヤ書2章2節~3節)
しかしペテロがそう願ったにもかかわらず、キリストの栄光の姿は雲に覆われてしまいました。そして雲の中か
ら、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 という神の御声が聞こえたのです。やがて雲が消え去ると、そこに
は弟子たちが見慣れている普段のイエス様の姿しかありませんでした。
私たちも主の栄光を見る
イエス・キリストを栄光のキリストとして知ることは意味のあることです。キリストは今もそのような栄光を表し
ておられます。キリストの素晴らしさは世界に伝えられ、多くの人がその栄光を見ることができるのです。 西洋
の絵画を見ると、そこでは多くの画家が聖書を題材として素晴らしい芸術を残しています。また文学や音楽に
もキリストの栄光が現れています。ある人は音楽が好きで、バッハにひかれてルーテル教会を訪ねてきました。ま
たキリストに生かされて素晴らしい働きをしている人々にひかれて、キリストのもとに来た人もいることでしょう。
キリストは今もこの世界の中でご自分の栄光を表しておられるのです。多くの強い国の王たちや指導者た
ちは自分の上にあるキリストの権威を認めています。芸術や文化がキリストに仕えています。
私たちが日常の生活から少し目を離して、世界的に、また歴史的にキリスト教を眺めることは大切なこと
です。世界と歴史の支配者としてのキリストを崇め、主として崇めるのです。
崇めることと従うこと
それではイエス・キリストを崇める人はみな、イエス・キリストに従っているのでしょうか。そうではありません。イ
エス・キリストを崇めていても、従っていない、だから本当の意味ではイエス様を崇めていない、ということがあるの
です。私たちはキリスト教が歴史の中に記している偉大な足跡によって、イエス様の栄光を崇めることができる
でしょう。イエス・キリストの愛やその生涯に霊感を受けて、優れた芸術を残した人々を通してキリストを讃える
ことはできるでしょう。またキリストに従って素晴らしい働きや生活をしている人々の側にいることによってキリスト
の栄光を見ることもできるでしょう。
しかし、そうしたキリストの栄光はあなたの外側にある栄光であり、借り物に過ぎません。イエス・キリストは
歴史の中やほかの人々の生活の中にご自分の足跡を残すだけでなく、あなたの人生の中にご自分の足跡を
残し、あなたをご自分の栄光にあずかる者とすることを願っているのです。
イエス・キリストは、私たちがそれぞれ置かれている場所で、どのように神に仕え、神に従うべきかを教えるた
めに、私たちと同じ姿の人間になってくださったのです。また、その歩みを助け導いてくださるために今も働いてお
られるのです。
栄光のキリストだけを追い求めていると、現実の信仰生活につまずいてしまいます。なぜなら現実の信仰
生活は、自分の栄光を求めようとする自我との戦いであり、自分の十字架を負うことだからです。
私たちの働きがそのまま人々に受け入れられ、ほめてもらえるという結果を期待しますが、現実はそうでは
ありません。人々から理解されず、評価もされず、笛吹けども踊らず、というような事の方が多いのです。
しかし、「キリストに従う」 ということが、そうした場面でこそ初めて実行されるのです。キリストの栄光をなが
め、称賛する立場から、その栄光にあずかる道を歩むのです。このキリストの変容は弟子たちにとって大きな信
仰の転回点(ターニングポイント)になりました。それは栄光のキリストから十字架のキリストに従う、という転回
点です。そしてこの転回点は私たち一人一人に必要なものです。今私たちはキリストの栄光の顕現を覚える
季節から、キリストの受難を覚える時に移ろうとしています。主に従うことによって、本当の意味で主を崇める者
になりたいと思います。
お祈りいたします。主よ、今私たちはこの礼拝であなたの栄光を崇めます。しかしまた、あなたに従うことに
おいて、恥を受け、自分の栄光や誉を捨てることによっても、あなたを崇める者としてください。私たち一人一人
の生活の中であなたに愛されたキリストの生き方に学び、また従う者にしてください。その歩みをキリストが助け
てくださることを信じて、踏み出す者としてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アー
メン