2024年  2月 25日  四旬節第2主日(紫)

      聖書 :  創世記               17章1節~7節、15節~16節
            詩篇               22編 24節~32節
            ローマの信徒への手紙     4章 13節~25節
            マルコよる福音書        8章 31節~38節

      説教 : 『 信仰を言い表す 』
                    信徒のための説教手引き 信徒代読
      教会讃美歌 :  80、 300、 331、 290

イエスが人々の前で活動されたのは、30歳から33歳までのわずか三年半であったと考えられています。その公生涯の
半ばに、イエスは弟子たちに、ご自分を何者だと言うかと、問いかけられました。

ペトロは弟子たちを代表して 《あなたは、メシアです。》 と答えました。イエスと行動を共にした弟子たちは、その言葉
や働きを見て、確かにこの方はメシア、キリストであるという確信を持ったのです。

キリストに対して信仰の告白がなされた、ということは重要なことです。イエスをキリストと言い表すことは、イエスによって
、私たちに出会われる神を受け入れることだからです。ですから、同じように私たち一人一人に
「イエスを誰というか」 とい
う問いが差し出されているのです。

クリスチャンとなることは結婚することに似ている、と思います。 結婚はお互いの意思表示がなければなりたたないから
です。

神はイエス・キリストを下さって、私たちにご自分の愛を表してくださいました。イエス・キリストもまた、その御言葉と御
業を通して、神の愛、そしてご自分の愛を表してくださいました。イエス・キリストは私たちに対する神の愛の告白なのです
。 信仰を言い表すことは、その神の告白に私たちが応えることなのです。

また、イエスが 「わたしを誰と思うか」 ではなく、「誰と言うか」 と問いかけられたように、告白は自分の口で言い表す
ことが大切です。たとえ心の中ではどんなに信じたいと願っても、言葉にならなければその人の意志表示とはなりません。
 《人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。》(ローマ10:10)

イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人は、皆そのようにイエス・キリストを告白した人なのです。

ペトロが信仰を言い表したすぐ後で、イエス・キリストはご自分がこれからどんな道を歩もうとされているかを告げられまし
た。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活するこ
とになっている。》このキリストの言葉にペトロは躓きました。 彼はイエス・キリストを脇へお連れして諫め始めた、と書かれ
ています。彼はここで一緒にいる他の弟子たちや群衆が、キリストの言葉に動揺しないように配慮し、会話の聞こえない
ところに連れて行ったのでしょう。

彼はイエスに対して期待を持っていました。それはペトロだけでなく、多くのユダヤ人がメシアに対して抱いていた期待
だったのです。キリストはエルサレムで神のおおいなる力を表し、ユダヤの王になってくれるはずだ、という期待です。そこでキ
リストを諫め始めたのです。「先生、何ということを言われるのですか。そんなことがあるはずがありません。あなたは私たちに
とって大事な方なのですから、もっとしっかりしなければいけませんよ。」

しかし、キリストはそのペトロに対して厳しい言葉を浴びせられます。《サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず
、人間のことを思っている。》ペトロの言葉は、いかにもキリストを愛し、気遣っているように聞こえます。しかし、イエス・キリ
ストはペトロのいかにも愛情深い言葉の中に、メシアの道を曲げようとする悪魔の声を聞いたのです。

弟子たちは決して自分たちの欲望を満足させようとしてイエスに従ってきたのではありません。神の民イスラエルのことを
考えて従って来たのです。自分たちの願っていることは国のために良いことなのだから、神のためにも良いことのはずだと考
えたのです。しかし、一見すると自己犠牲さえ惜しまずにかざす大義名分の中に、この世の称賛を求めてやまない人間
の欲望が隠されています。私たちはしばしば、イエス・キリストに対してそのような願望を押し付け、キリストを踏み台にし
て自己実現をしようとするのです。弟子たちもまた、この世で何の栄誉も得られずに挫折するようなキリストの予告を到底
受け入れることができなかったのです。

明治時代に多くの社会運動家や芸術家が教会の門をたたいたそうです。人々はキリスト教がこれからの日本の国造
りのためにきっと役に立つに違いないと考えたのです。また、芸術家はキリスト教がきっと自分たちの芸術にインスピレーショ
ンを与えてくれる、と考えたのです。しかし、彼らはすぐに教会に失望し、去って行きました。教会は自分たちが期待する
ものを与えてくれないことに気付いたからです。そればかりか、キリストに従うときには、自分の思想も、芸術も、それによっ
て得られる名声も称賛もあきらめなければならないかも知れない、ということを予感したのです。キリストはそれを捨てる者
にその何倍ものものをこの世で返されるお方ですが、そのことを多くの人は信じられないのです。

同じことが私たちの信仰生活にも起きないでしょうか。「教会は私たちに安らぎを与えるところでなければならない。こん
な面倒な問題ばかり起こるなら、教会とは言えない。」と言って教会を去る人もまた、キリストを自分の期待に従わせよう
としていたのです。イエス・キリストはいつ「安らかな信仰生活」
を約束されたでしょうか。

自分の願っていること、求めていることが 「良い願い」 であると信じれば信じるほど、それがイエス・キリストを自分の脇
に引き寄せてしまっていることに気付きにくいものです。

しかし、本当はそこで求められているのは神の認知、神の称賛ではなく、人々から認知されること、称賛されることです
。そこではまた人間が主人であり、神は脇役に追いやられる
「主客転倒」 が起きているのです。

本気で神の道を歩むなら、自分の期待に反して、悩みや苦しみを経験することもあります。世の人に認められないば
かりか、軽蔑され、疎んじられることだって起こるのです。

この世は神の訪れを喜ばず、かえって疎んじるからです。ですからキリストに従う道、福音に仕える道は、主が示された
ように十字架の道となるのです。 しかし、それこそが、神に認知される道、復活と命への道なのです。

《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。》イエス・キリストはご自
身に従う者にそのような覚悟を求めておられるのです。

イエスを主として従うとき、確かに私たちの思いに反する悩みや苦しみが起こります。しかし、幸いなことに、イエスに従う
者にとっては、イエスが助け主でもあるのです。自分が先ではなく、イエスが私たちの頭となり、主となられるとき、私たちで
はなく、イエスご自身が私たちを救う力となるのです。

ペトロはそれを学びました。 彼はキリストが捕らえられた時、あの人の弟子かと聞かれて、否定しました。彼はその挫
折を通って自分の熱意ではなく、キリストの愛によって支えられていることを知りました。自分の義しさではなくキリストの赦
しによって、また罪深い肉の力ではなく、復活のキリストの力によって生かされることを学んだのです。

彼が自分ではなく、イエスを主とした時、彼は強くされたのです。ですから、私たちも最後まで、イエスをメシアとして、主
として告白し、従って行きましょう。ペトロを導いた主イエスは今も生きておられ、私たちを支え、導いてくださるからです。

お祈りいたします。

主イエス・キリスト。言葉においても、生活においてもいつもあなたをいつも主と告白し、従うことができますように。弱い
わたしたちを赦しと恵みによって導いてください。あなたに従う道のその先に、わたしたちの栄光も喜びもあることを確信でき
るよう、信仰を強めて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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