古より、生老病死 という言葉があるように、人が病むとは、日常的に肉体的にも精神的にも悲痛な
ダメージを受け、痛みと苦悩を抱え続ける事になります。病人は心身を病みながら生きてゆかざるを
得ませんから、心身共に苦悩し続けるのです。
主イエスは宣教活動の最初から、様々な病を抱えて日々を暮らさざるを得ない人々を癒されました。
そのことが「神の国は近づいた」証左であったのです。神の国の到来とは病む人を癒すことであったか
らです。神の国が見える形ですでに到来していることを、わたしイエスの癒しの業から信じ、理解しなさ
い、と。
癒しとは、ある面では、病む人の病そのものをわが身に移し代えて、病む人を癒す行為でもあるので
す。
薬を調合して与えることも大事ですが、それだけではなく、手の温もり、感触、的確な場所への刺激、
前頭葉から手と指を経て気を病巣と病む人に注ぎ込む・・・・その事でもって病む人を健やかにして行く
のです。 その結果、病のすべてを癒し手がその身に負ってゆくのです。そのためにイエスはまだ30歳
にして老いた人のように見えたとも言われたのです。
「わたしが行う業そのものによって、神の働きと支配が地上で実施されていることを知りなさい。」と諭
されてもおります。
さらに、当時の社会状況の中で、民衆を癒す行為は、社会権力層へのプ大きなロテストでもあったの
です。今の時代でも、医師免許なしに、医療行為をすることは禁じられております。違反すれば拘束さ
れるでしょう。イエスが行った民衆への無料の癒しは、中央指導者集団にとっては、反逆行為であって
、審問官が訴える証拠を得るためにしばしば調査に来ていたのです。イエスの癒しはご自分の命を賭
けた癒しの行為であったのです。
ヨハネ福音書9章に於いて、生まれつきの盲人の癒しが述べられています。その中でその癒しにつ
いて、ファリサイ派の人々が調査審問官として、本人と両親を尋問するところが詳しく記述されています
。これは大問題であったのです。ましてやラザロを墓から生き返らせたことに至っては、イエスを殺す
計画にまでに至ったのです。この事例から分かりますように、病人を癒す行為は大きなリスクを抱えな
がら行ったのでありました。この世で、病と障害を抱えて生きる事の大変さに深く同情したからでした。
しかも、
「神の国は近づいた」とは、彼らの病と障害を抱えた生活からの解放である事のメッセージであった
のです。
宣教するとは、この世に生きながら、この世の価値観とは別の価値観・神の目から見て尊いとする生
き方に生きる価値がある、と気づかせる契機を捕捉し、選択して生きる道へと進ませることなのです。
ただ、病が治されたということだけではなく、癒された神の深い愛と慈悲が自分に注がれていることに
気付くことが、「救い」という神の神秘を知的にも知ることになるのです。
病が癒されることを契機にして、イエスのみ言葉を、反芻し、再吟味するのではないでしょうか。そこ
から人は学習してゆくのです。自分自身ではわかっていても、体験のない他の人にどのように、自分の
体験を自分の言葉で伝え得るのか。
我々の生活は多岐にわたっております。その一つ一つが神の目からご覧になって、生きる自分が納
得して生きてゆくためにも、学習を続けるのです。それをヨハネ福音書は「信じ知る」と表現しておりま
す。
そこが、聖書が語る聖なる領域へと我々を導かれてゆく道筋といえましょう。
最終的・根源的には、人は命の根源者である神に愛されている存在なのであります。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びな
いで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。 ヨハ 3:16ー17
本日の聖書個所を少し見てみましょう。
「権威ある者として教えになったからである」 22節
これは、時々牧師が説教の中でルターも同じことを言っているのですから、私の言葉も的を得ている
のです」とルターからお墨付きを得ようとする場合があるのですが、ここでは、語るイエスご本人が権威
ある存在であった事。有名な師の保証やお墨付きを必要とはせず、ご自身が真実性に立っておられた
からであります。
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」31節
治癒された証明として、シモンの姑は、一行をもてなしました。この「もてなす」は単純に給仕する意
味ではなく、イエスに従う姿を述べる用語であります。この「もてなす」動詞は継続的な動作の開始を
示す未完了形ですから、「もてなし始めた」の意味であり、もてなしは一時かぎりではなく、長く続くので
す。シモンの姑は、イエスによる癒しの奇跡体験から、そこに働く神の力を見たのでした。それが彼女
にとっての「救い」体験となったのでした。生きた神を身近に知ったのです。神の慈しみを知ったのです
。神の慈しみを知った者は、その後の人生の中で苦しみに遭遇しても、這い上がって、生きる力を失い
はしないのです。
「癒えざれば癒えざるままに復活祭」井川静 一度「救い体験」をした人は 神様の前で、苦悩は相
対化するものなのです。
「神の国は近づいた」とのイエスの宣言から、癒しと教えを受けて「神の国」体験・神の力を見た民
衆の大勢が起こされました。その人々が教会を形作ってクリスチャン(キリストに従う者)と呼ばれるに
至ったのでした。
祈りましょう。
身体を病む者に癒しと主の平安をお与えください。
過ぎて見れば、わたしの人生は束の間の如くでございました。
その間に、主のみ言葉に与かったことを感謝いたします。
主イエスを信じ従う兄弟姉妹方と共に礼拝に与かることは限りない喜びでございます。
富士教会の一人一人を守り導いてください。 アーメン。
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