2024年  3月 17日  四旬節第5主日(紫)

      聖書 :  エレミヤ書            31章 31節~34節
            詩篇               51編 3節~14節
            ヘブライ人への手紙       5章 5節~10節
            ヨハネよる福音書        12章 20節~33節

      説教 : 『 一粒の麦、地に落ちて 』
                       木下海龍 牧師

      教会讃美歌 :  71、 336、 394、 200

 山田風太郎は「人間臨終図鑑」巻2 「56歳で死んだ人人」の項目の冒頭で書き記した言葉に「みん
ないう。―――いつか死ぬことはわたっている。しかし、『今』死にたくないのだ。」と。
 数えで90歳になった私です。それゆえ、自分は、あと数年で死ぬだろうと思っています。でも『今』死
にたくないのです。
 巻4から読み始めて、巻3を読み、現在は2巻(50歳~64歳)を隙間時間に、読んでいるのですが、
この2巻では日本及び世界各国の234人の著名な方々の臨終を紹介しております。森鴎外など著名
な方々をはじめ、人によっては働き盛りの方々多数おられます。
 「人は、その年齢にかかわらず、死ぬ時にはみな亡くなるのだ!」それが実感です。
 過って私は定年まで健康で、牧師の務めが果たせるだろうか。いやこの状態のままでは、牧師の務
めは果たせない。と、40の半ばの数年間は、不安がよぎっていました。そう思わざるを得ない状況に
陥った私でしたが、数えで90歳になって参りました。でも、今こそ、自分は死ぬ時が来た!とは思えな
い。神様の召し出しを感じられない。今ではない!と思ってます。
 何が足らないので、今がその時だ!! と確信できないのでしょうか。

 「今こそ、自分は栄光を受けるときが来た。」(すべての人の為に死ぬ時が来た)と宣言された
。主イエスのみ言葉から聴きとって参りましょう。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦
は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」12:2324


 主イエスは、明言されました。「人の子が栄光を受ける時が来た。」と。

 イエスは処刑されて死ぬ時が来た、と。 これまでに、捕らえられる機会は何度もあったはずでした。

7:30  人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来て
いなかったからである。
8:20  イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。し
かし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。


今日のヨハネ聖書書のロギア(説話)は他の福音書には掲載されていない主イエスの言葉であります。
このロギアから聴き取って参りましょう。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
12:24

このロギアの解釈としては二つ面があるでしょう

   人としての、生き方の本質的な叡智として捉えがちな傾向があります。

   ② 主イエスこそが地に落ちた一粒の麦そのものである、そのことを強調する解りやすい
     ロギアとして、語られている。と強調する立場があります。


私はを主流としながらも、今この時に、地上で生きている我々の基本的な生活態度として捉
え理解することです。主イエスの一粒の麦としての生き方は、イエスに従って生きようとする者に
とっての生き方であると捉えて然るべきでありましょう。

イエスが、今がその時だ、とした兆しは、何に寄ったのでしょうか。

本日の福音書の冒頭では、一見、脈略なしに唐突にギリシャ人が登場して参ります。 実は彼ら
の登場によって、主イエスの発言が大きく転回してゆくのです。
 本日の聖書の個所を見てみまし
ょう。

ヨハ12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギ
リシア人がいた。

12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目
にかかりたいのです」
と頼んだ。  12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは
行って、イエスに話した。

まだ来ていなかったイエスの時が、異邦人(ギリシャ人)がイエスを訪ねた今、その時が成就し
た!とイエスは宣言されたのです。


 著者ヨハネは、ここに、ギリシャ人の登場を書き記す必然性を見たのです。それは、著者ヨハ
ネは、異邦人の訪問が「イエスの時」が成就した兆しだと理解したからであります。著者ヨハネ
は このギリシャ人がイエスに会えたかどうかではなく、異邦人の訪問が開いたイエスの時に関
心があったのです。このギリシャ人もいつの間にか舞台から消えて行きます・・・。

異邦人が主イエスを訪問して来た、ということの意味は:

ヨハ10:16 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければな
らない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れ
になる。

異邦人が過ぎ越しの祭りに来て、イエスを訪問するための来訪が、開いた時の今は、何が起こる
べき「今」なのだろうか、それを23-33節が述べているのであります。(その個所を声を出して読む)

さらに33節は著者ヨハネがイエスの言葉に加えた解説であります。

12:33  「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」

著者ヨハネは、異邦人の到来がもたらした今の時の意義をイエスの死に置いているのです。
エスは死なねばならない。だが、その死は惨めな敗北ではなく、栄光の時である。なぜ死が栄光
なのか。

24-26節でイエスは自分の死を「多くの実を結ぶ」ための死だと理解して受け止めていたからで
す。

12:24  はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、
死ねば、多くの実を結ぶ。=(イエスの死の意義)

12:25  自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って
永遠の命に至る。=(弟子への呼びかけ)

12:26  わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたし
に仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。=
(弟子への約束)

12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光
を現した。再び栄光を現そう。」

神はイエスの祈りに答えて、イエスを天に戻すと約束されました。死と復活と昇天、それが神の
栄光を現すことであったのです。尋常な人間の思考からは全く考えられない出来事を主イエスを
通して顕したことは神の権能と至高の愛を顕したからであります。

 「人はいつかは死ぬ、しかし今は、チョット待って!」

決定的に自分の命をいまだに極め尽くしていない、あと、何年、研鑽すれば、永遠の命を極める
事が出来るのでしょうか。何を、どうすれば、『今』こそ、我、死ぬ時 来たれり!! と言えるの
でしょうか。

 加齢が進み、体が枯れてきて、寿命が尽きてくれば、体の抵抗は少なくなるらしいのですが。

心はどうでしょうか? やり残した仕事がまだある・・・。あと5年もすれば孫たちも成人して嬉し
い結果が見られるから・・・・。『今』死ぬのは嫌だ。

そうした、極めきれない私どもの不徹底さと信頼しきれない不信仰に代わって、主イエスご自身
が、
一粒の麦として地に落ちて、死んで、多くの実を結ばれたのでした。

 あなた方と私は、主イエスが結ばれた掛け替えのない、その一粒の麦なのです。

諸々の不安の中にいる私どもに向かって、語られました。

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

14:2  わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を
用意しに行くと言ったであろうか。 14:3  行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って
来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいること
になる。」

  アーメン

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