2024年  3月 24日  主の受難(紫)

      聖書 :  イザヤ書             50章 4節~9節a
            詩篇               31編 10節~17節
            フィリピの信徒への手紙    2章 5節~11節
            マルコよる福音書        14章1節~15章47節

      説教 : 『 心を注ぐ 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  80、 81、 318、 386

本日、主の受難(受難主日)の日課は、通常の主日よりも、たいへん長い聖書の箇所が与えられています。 でき
れば何回にも分けて、御言葉に耳を傾けたいのですが、平日、おおぜいの兄弟姉妹が共に集うことは、お仕事を持って
おられる方々などおよそ無理な話ですし、一年に一度この主の受難の記事全部を、みんなで共に聴くことも、非常に
意味のあることです。

日本では、教会の暦が、どちらかというと受難から復活にかけての礼拝よりも、クリスマスを祝う準備の期間の方が、
重要となってしまっている感があります。 しかし、それは非常に残念なことです。 人は誰でも生まれてきますが、私たち
人類の罪すべてをその身に負われて死なれたのは、この方だけですし、そのことが一番大切に覚えられるべきではないか
と思います。 その上で、待降節から降誕節の期間が、意味あるものとされるのです。 なお、付け加えると、多くの場合
、クリスマス礼拝もイヴを過ぎずになされる場合があるようですが、これも見直してみられてはどうでしょうか。     さて
、本日の日課ですが、主イエスがいよいよこれから十字架の時を迎える寸前の出来事が記されています。 主はこれま
でも度々、弟子たちに、十字架の苦難を受けられることを予告してこられました。 しかし、弟子たちは、もう一つ、その
ことにピンと来ていません。 ところが、一人の女性が、主の死の近いのを悟り、持てるものすべてを捧げて、その死別を
悲しみ、今までの感謝と、また主が決心しておられることに神の栄光が現わされるようにと、祈りを込めて、自分にできる
限りのことをいたしました。 ご存じ、ナルドの香油です。

他の福音書では、この女性はマルタとラザロの姉妹、マリアであったことが記されています。 一デナリが、当時の一日
の日当であったことを考えると、実に労働者一年分すべての収入額に相当した、高価な捧げ物であったことが分かりま
す。 彼女は、主を愛し、いつも主の言葉に全身全霊をもって耳を傾けていたがために、その愛する主の死が近いことを
、直感で察知したのでありました。 主はその行為を喜ばれました。 彼女がなしたこと、それは人間的な打算からすれ
ば、大いなる浪費であります。 しかし、そこには、心が注ぎ切られていました。 愛する者が奪われようとするとき、私た
ちはすべてをもって、そのいとしい人に対して自分のなしうるすべてのことをしようとするでしょう。 主に対してその死が近
いのを知り、備えをしたのは、彼女だけでした。 主はその愛を喜ばれたのでした。

私たちにとって大切なことは、なした事、それ自体ではなく、どういう想いをもってそれをなすか、ということです。 マザ
ー・テレサは、このように言っています。 「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心
を込めたかです。」 Ⅰコリント13章が言うのもそのことです。 どれだけの事業や数字を上げるかということではなく、誰と
共にどう生きようとするのか、ということが大切なのです。

私たちは、心から主を愛し、主に仕えているでしょうか。 主は私たちに、すべてをささげ、その愛を注ぎ切ってくださり
、そして今度は私たちに、その応答を求めておられます。 その応答は、私たち一人一人が、主の愛を確信し、また主
が歩まれたように、愛に生きることです。

主がこの最後の週、ベタニアを拠点として行動をなされたことは、決して偶然ではありません。 主は何度も、エルサ
レムとベタニアの間を行き来なさいます。 夕暮れになると、エルサレムからわざわざベタニアに戻り、そして翌朝、再びエル
サレムへ出掛けて行くという記事が、11章にも何度も出て来ます。 片道3キロ足らずの距離とはいえ、エルサレムに泊
まった方が便利なのにと、思える具合です。 ところで、近年、死海写本の発見により、重い皮膚病患者の隔離場所
として、都の東方にそれを作るよう、規定が記された巻物が見つかりました。 まさしくベタニアは、都の東方にあります。
 オリーブ山の麓に位置するこの村が、隔離村であったことは、極めて可能性が高いのです。 14章3節の
「思い皮膚
病人シモンの家」
の記事も、それを裏付けるものです。

だとすれば、主イエスが取られた行動も、非常に意味のあるものだと推測されるのです。 苦しみを負っている者、特
にはまた、それだけではなく、人々から差別され、疎まれている者、何ら悪をなしているわけではないのに、人のゆえに孤
独に追いやられている者、そういった者のところに、主イエスはできるだけ共におられようとしたのではないかと、うかがえるの
です。 そして、主イエスは、教会にも、ご自身がなされたように歩むようにと望んでおられると思うのです。

教会が、まことに教会であることは、どういうことでしょうか。 礼拝、もちろん大切なことです。 全身全霊をもってその
時を持つべきでしょう。 しかし、それは、外見的な荘厳な器や、特定のグループ分けを前提としません。 主はサマリヤ
の女と話をされた時、《まことの礼拝をする者たちが、霊とまことをもって父を礼拝する時が来る。》、
《そうだ、今来てい
る。》
と言われ、《父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる。》 と言われました。 その時、女は砂ぼこりの足
で、しかも場所は井戸端だったのです。 しかし、彼女は真剣に、主の言葉に耳を傾け、また全霊を主に向けていたの
です。 私たちは、全霊を主に向けて礼拝をしたならば、また主から、どのように生きるべきかも示されるでしょう。 自由
に、大胆に、主の愛に生きる時、教会はまことの教会たるでしょう。 地上を歩まれたとき、主はいつも、苦しめられた者
と、心を共にされました。 病人の人が癒されたのも、単に肉体的苦痛の解決だけではなく、精神的に人々から疎外さ
れた苦痛の解決を与えるものでした。 主は、いつも虐げられている者と共にあったのです。 だから、時の権力者からは
憎まれたのです。

イエスは人を愛されるがゆえに、人を苦しめているすべてのものを憎まれたのです。 そして,これと闘われたのです。 
だから私たちも、主の愛に倣い、人々を不当に苦しめるものがあるならば。これを取り除くよう闘うことが、混迷のこの世
での私たちの務めではないかと思うのです。 主は、私たちのために、最大の敵とも対決くださいました。 私たちでは太
刀打ちできない、大き過ぎる敵、すなわち罪と死に対しても勝利をくださいました。 ご自分を犠牲にして、ご自身では
受ける必要のなかった苦悩、私たちの罪のゆえに罰せられるということ、私たちの身代わりとしてその罪責を負われたので
す。 その十字架上での苦悩は、想像を絶します。 神と一体であられた方が、人類の罪のゆえに神が見えないという
、完全な霊的暗黒を味わわれたのです。 私たちは、その打たれた傷によって癒されたのです。 そして、私たちは勝ち
取られたので、その方に喜ばれるように生きようとするのです。

主を愛し、主に従おうとしない者は、自分の罪を認識していません。 私たちはどちらでしょうか。 そして、もし主に
自分を捧げるなら、主と共に、御心が地でもなされるようにと、自分の出来るすべてを、心と共に注ぎ出すのです。 主
が共にあるように。

お祈りいたします。
  神さま。私たちのために、主イエスが身代わりとなり、暗黒の苦悩をお受けくださったこと、おそれつつ感謝いたします。
どうぞ、私たちが、その感謝を忘れず、生涯あなたのもとに居、あなたの愛に満たされて生きていくことができますよう、私
たちをお恵みください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈ります。アーメン

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