2024年  3月 3日  四旬節第3主日(紫)

      聖書 :  出エジプト記           20章 1節~17節
            詩篇               19編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ   1章 18節~26節
            ヨハネよる福音書        2章 13節~22節

      説教 : 『 ひっくりかえす主 』
                    信徒のための説教手引き 信徒代読
      教団讃美歌 :  142、 139、 515、 500

私たちが抱くイエス様のイメージは、聖画などで見る優しいまなざしで、あるいは悲しそうなまなざしで私たち
を見つめられるイエス様ではないでしょうか。優しいイエス様、痛々しい十字架の上のイエス様、必死に神に祈
っているイエス様、私たちはそのようなイエス様を描くことが多いのではないでしょうか。

ですから、本日の日課に出てくる激しく怒られ、縄を振り回し、台をひっくりかえし、ものを撒き散らすイエス様
の姿に出会うと、どきっとさせられます。イエス様のこのような姿を見ることはここの箇所以外にはないでしょう。だ
から、どうしてこんなにも激しく怒られたのかを思うのです。

ユダヤ教にはいろいろな祭りがありました。それぞれの祭りには家畜や穀物などを神殿に捧げることが律法で
決められていました。過越しの祭りには、子羊が屠られ、パン種を入れないパンを食べて、その昔イスラエル人
がエジプトからの脱出したことを記念する祭りで、春の農耕の祭りの一つとして大切に祝われていました。そのた
め、エルサレムから遠く離れた所に住んでいるユダヤ人たちにも、エルサレム神殿で捧げものを捧げることが大切
なこととして義務づけられていました。

遠くから旅してくるのですから捧げものの家畜や穀物を携えてくるのは難しいことだったので、神殿の境内でそ
れらを買うことが出来るような規定がありました。また、神殿に納めるお金はユダヤの通貨と決まっていたので、
遠くのいろいろな地方から来る人たちは両替しなければなりませんでした。

人々の必要に応じるために、神殿の中にはいろいろなお店がありました。神殿にお参りに来る人たちにとって
は当たり前のこと、必要なものを買うことの出来る便利な所となっていました。だから、誰ひとりとして、それがお
かしい、とは思っていませんでした。

けれども、イエス様は違いました。しかし、感情に任せて怒りを発せられたのではないのです。なぜなら、この
ようなことは毎年行われていたのですから、今日が初めてのことではなかったのです。このような光景を見て、こ
れではいけない、このままにしておけない、という問題意識を持たれたのだと思うのです。

神殿の境内でなされている商売、売り手と買い手のニーズがあってこそ成り立つ商売を問題とされたのです
。商売は利益を上げなければ商売とは言えません。片方では宗教的敬虔さを利用して私腹を肥やす商人や
神殿で祭儀をつかさどる人々、もう片方には律法に基づいて宗教的形式に忠実であろうとする民がいました。

イエス様はここを問題とされたのだと思います。神様への犠牲、それはもともと自分自身を捧げることでした。
神様と自分の関係を神様によって赦され、正されていくことだったのです。

それがいつの間にか、動物の犠牲を捧げることによって、神様の怒りを静めようとする人間の駆け引きになっ
ているのではないか、信仰的には忠実であるように思える行為が、果たして本当に信仰に基づくものであるかと
考えているのか。

そのような思いをひっくりかえすために、イエス様は怒りを表されたのではないかと思います。そのことを人々に
分かってもらいたい、信仰は取引ではない、自分が神様をコントロールできるものでもない、そのような熱い思い
をイエス様の怒りから感じ取れはしないでしょうか。

私たちの信仰をイエス様はひっくりかえされます。神様がこんなことをしないはずだ、神様の語られていることに
近づいていくように努力しているのに、なぜ、こんなことになるか、という思いを私たちは抱くことがあると思います
。このようなときこそ、私たちの信仰を見直さなければならないときだと思います。

神様が、イエス様が私たちに何を求めておられるのか、私たちの行為をもう一度見直さなければならないの
です。神殿を壊してみよ、三日で立て直して見せる、と語られたイエス様は、十字架によってご自身を捧げ、
三日目に復活され、永遠の命を示されました。イエス様の死は旧約聖書に書かれているどんな犠牲の捧げも
のよりも尊いものだったことを私たちは知らされております。

イエス様が神殿の境内で商売道具をひっくりかえされ、商人たちを撒き散らした行為は、私たちが間違って
いることをしてはいけない、という信仰をひっくりかえされたのだと思います。そして、この行為は感情的なもので
はなく、私たちを激しく求められている心から湧き出たものなのです。

私たちに対するイエス様の激しい愛から出たものだと思うのです。これほどまでに私たちを愛し、求めてくださ
っているイエス様を思いながら今週も過ごしていきたいと思います。

<お祈り>

私たちを慈しみ深い愛で包んで下さっている神様を賛美いたします。

生ぬるい思いしか抱けない私たちを叱り、憐れんでください。主の愛に私たちが応えられるように、私たちに
深い信仰をお与えください。そして、まことの礼拝を捧げることができるように、常に信仰の原点に立ち返ることが
できるように導いてください。

ご自身を捧げられたイエス様のみ名によっていのります。アーメン

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