2024年 3月 31日 主の復活(白)
聖書 : 使徒言行録 10章 34節~43節
詩篇 98編
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章 1節~11節
ヨハネよる福音書 20章 1節~18節
説教 : 『 後ろを振り向いて 』
木下海龍牧師
教会讃美歌 : 90、 95、 105、 336
振り向く」とは、視点を換える・自分では思ってもいなかった生きる道がある事に気付く事だと思いま
す。我々はややもすると、目の前の事柄に囚われて行き詰まってしまうことがあります。それでありな
がら、なおそれしかないと思い込んでしまっている事が少なくありません。実は他にも自分が生きて行く
道があるにもかかわらず、その一つの事に拘ってしまっている事が往々にしてあります。
そうした中で別のところからの声掛け、呼びかけ、書物からの言葉などによって、自分の視点を換え
られて立ち直るということがございます。
高校三年生の夏休み入って間もなく病を得て、
9月から学校には休学届を出すにいたりました。数か
月が過ぎようとしたときに、このままでは出席日数が足らなくなって卒業できなくなると知らされ、同級
生みんなと一緒に卒業が出来なくなる。このままでは落第生になってしまう!!
學校に出かけなくて!! 未だに全く癒えていなかったのだが、起き上がって ズボンをはき、ワイシ
ャツのボタンを留めていた時に、傍らにいた母親がポツリと言いました。「学校も大事だけれど、わたし
はお前の体の方が大事だよ。」と。
わたしは、その言葉に、ハッとしました。わたしは自分の落第の恥ずかしさとか、同級生と一緒に卒
業できない残念さとか、授業内容よりも出席日数を何とかして満たさなければとか、そんな事に一杯に
なって、学校に戻らなくてはと 病の床から立ち上がっていました。ところが、この人は、わたしの命の
方が大事だ、と言っているではないか。これは何だ!!
この人は、わたし自身が自分のことを考えている以上に、もっと篤くわたしの命のことを気遣ってくれ
ているではないか!!? それで、私は覚悟が決めって、再び病床に横たわって、長い療養に専念す
るにいたりました。
その後に、薬と注射の為に通っていた医院の二階で広い和室で開催されていた日曜日の集いに導
かれ、主イエスの言葉を知るにいたりました。そこで読んだ次の言葉が、このときの事を思い起こした
ものでした。
マタ16:26 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自
分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
さらに、主イエスが語る「永遠の命を得る」とは、どういう事なのだろうか!? と導かれました。
本日の聖書には、マグダラのマリアが「振り向く」場面が、二回あります。14節と16節です。
①
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたし
の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
(ア) 20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、そ
れがイエスだとは分からなかった。
②
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マ
リアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教
えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
③
20:16 イエスが、「マリア」と言われる
と、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。彼女は、泣
きながら身をかがめて墓の中を見た。白い衣を着た二人の天使が見えた。彼女は
彼らを園丁だと思
っていた。
④
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、そ
れがイエスだとは分からなかった。
マリアは園丁だと思い込んでいた。そう思うのは普通でありましょう。そう言いながら後ろを振り向く
と、イエスが立っておられるのが目に映った。イエスは死んで葬られたと堅く思い込んでいるものだから
、そこにイエスが立っておられるとは気づかないのです。その人物が園丁であると思い込んでしまって
いるのですから、彼女は思い切って言うのです。
「どこに置いたのか教えてください。わたしが、あ
の方を引き取ります。」と。すると
イエスが「マリア」と聞きなれた懐かしい自分に呼びかける声音を
聴いて、
振り向きざまに「ラボニ」と叫んだのです。尊敬と親しみのこもった呼びかけです。寝食を共
にした師に向かって、子が親に、妻が愛する夫に呼びかける親しい響きがあります。
幼稚園児が担任の先生に向かって「おかあさん!!」と声掛けをする場面に出くわす事があります。
本人も「あツ まちがえた!!」といった表情を一瞬見せます。マリアの振り向きざまに叫んだ「ラボニ」
にはそれに近い領域の思いがこもっています。
マグダラのマリアを堅い思い込みから、目の前の復活の事実に目覚めさせたのは、自分を救い出し
、愛し、時に弁護して、弟子の交わりに導き入れて、育てて、一人前の弟子として扱ってくれた、あの聞
きなれたイエスのマリアへの呼びかけであったのです。
私たち自身も、しばしばそうなのですが、この世の常識の中でしっかりと植え付けられた固定概念に
囚われて、目の前に現れた事実をそのままを受け入れられずに、自分なりに補正して、見てしまってい
る事があります。マグダラのマリアの場合、主イエスが十字架刑によって死んだことを目撃しており、ア
リマタヤのヨセフが所有する墓に葬られる場面にも立ち会ったことでしょう。主イエスは死んで葬られた
事実の証人であったのですから、主イエスは死んでこの世にはいないのだと固く確信せざるを得ない
立場にいたのですから、
「わたしが、あの方を引き取ります。」その反応は当然でありましょう。彼女
は最後までしイエスを尊敬し愛していた故に、葬りを丁寧に自らの手でなしとげたい熱い思いがこの場
に至ったのでした。そして、天使と復活の主イエスにまみえたのです。
我々が「振り向く・・」のは、自分自身の内側からの気付きに因るのではなく、自分の外側からくるよう
です。さすれば、そうした現実界的概念の解体と再構築のためには、日常的な自分の生活のルティー
ンが大きく影響するのは確かでしょう。 湯河原・小田原教会の岡村博雅牧師の開会礼拝の説教が聴
けて感動しました。それも私の普段のルティーンがもたらした恵みであったと言えましょう。 なぜなら、
東教区内には30人を超える引退教職の先生方が居られますが、当日の教区総会の開会礼拝に陪席
したのは私と小山茂先生の二人でした。準議員には選挙権がありませんので、チョットという気持ちは
ありますが。引退を明日に控えた牧師に敬意をもってねぎらう場は、彼の説教を拝聴することだと思っ
たからです。それで、気後れせずに参席しました。そこで大きな恵みを受けたのでした。 アーメン。
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